―――最後に人が訪れたのは、いつの事だっただろうか。
 

 窓から淡く白い光の射し込む中、神父は祭壇の前に立った。
 簡素な造りのそれに、そっと手を触れてみると、薄く、わずかに埃が積もっているのがわかる。触れた後についた自分の指の跡を見て、彼は溜め息をつき、己の怠惰を天に詫びながら、手にしていた布で埃を拭い始めた。
 手入れを終えると、そっと後ろへ下がり、布を側に椅子にかけて、祭壇に向け印を切る。
 祭壇の掃除を、しばらくの間すっかり忘れてしまっていた。祈りの時間など、ここに立つ事は幾度もあったのに、それでも気付かなかったということには、神父は自分でも驚いている。
 もう随分と長い事、手入れを修道女の一人に任せてしまっていたからなのだろう。
 あえて頼んだわけではないのだが、それを彼女は日課にしていたのだった。



 ‥‥‥彼女は院の中でも目立った、特別な存在だった。院の外にいればもっと目立っただろう。そして、しばらく前まで続いていた戦の間、彼女にとって目立つのは望ましい事で無かったから、彼女はこの院に身を隠していた。戦が終わってからも、彼女にはここを出る理由が無かったから、ずっと留まる事になるだろうと誰もが思っていた筈だ。
 だが、彼女はこの院を去った。

 温雅な気質の彼女は皆に好かれていたから、その旅立ちはやはり、寂しかった。閉じこもっているも同然の彼女が旅立てる様になったその原因は、神が祝福されたのだと思えるくらい、稀で、喜ばしいものではあったのだけれども。
 辺境の小さな修道院という場所の性質上、内部の人間の出入りというのは、あまり多くない。それも、ずっと留まっているだろうと思われた者がいなくなったのだから、少しばかりの寂寥感は仕方がないのだろう。
 戦が終わって、訪ねる者の数が増えた今でも、人の訪れがほとんど無くなる時期というのはある―――ここ最近のように。
 そんな時には、ふと、人恋しくもなろうというものだった。
 
 いつまでもこうして立っていても仕方が無い、と、神父は椅子に掛けていた布巾を手にとった。今日も礼拝堂には人がいない。何人かの修道女は、人手の必要な最寄りの町へ出かけ、手伝いをしていた―――町の役人が護衛をしているが、戦が終わって以来、女達の移動はさほど物騒な事でもなくなっている―――し、残った者達は部屋の掃除をしていたり、修行の時間であったりしていたので、出て来ないのだ。
 訪れる者もいない様であるし、今日はこのまま、出かけてこようか。死者に手向ける為のもの、それに、自室の花瓶に活けていた花も萎れてしまっていたのに、出かけた修道女達にその事を頼むのを忘れていたのを、彼は思い出した。しかし、まだ正午を過ぎてもいないから、買いにゆけるかもしれない。
 出かける前に、簡単に身支度を整えなければ。そう思って、神父は足早にその場を立ち去った。



 結局、できる限り急いだことが功を奏したのか、日が傾き始める前には、彼は院に戻る事ができた。
 別段健脚という訳でもないから、最近はあまり出かけていなかった割には上出来だろうと、神父は思った。腕に沢山の花を抱えて、院の正面に位置している教会の、その扉の前に辿り着く。
 荷物の為にあまり自由にならない手を動かして、悪戦苦闘しながら、なんとか戸を開けようとする。取っ手を上手くつかめず、何度か花を取り落としかけた。結局少ししか開かなかった扉を、花を抱えたまま肩で押し開きながら、身体を滑り込ませるように中へと入る。
 中に誰かいたら、かなり間抜けな格好に見えただろうと思いながら、一息ついて、神父は祭壇のある筈の正面へ身体を向け、顔をあげた。

 留守の間に、旅人が一人、訪れていたようだ。


 ―――軽い、既視感があった。

 祭壇の前に、一人の旅人が立っている。
 窓から射し込む白い光を浴びながら、旅塵にまみれた外套をまとったまま、じっと祭壇とその先を見つめている。身動きしないその男の、くすみがちの金色の頭髪が、淡い日射しに僅かに光る。
 神父の頭を、全く別の二つの記憶が過った。


 一日も欠かす事無く、祈りを捧げていた修道女。毎日、長い時間祭壇の前に立っていた彼女の金の髪に、窓からの日射しが照り返し、淡い亜麻色に煌めいていた‥‥‥。
 
 修道院の前で立ちつくしていた、一人の男。建物に反射する白い光を浴びながら、まるで、何かを探し求める様な視線を、高い窓に送っている‥‥‥。


 その旅人は、立ちつくしていた神父の方へ、ゆっくりと振り向いた。
「‥‥‥こんにちは、神父様。綺麗な花、随分たくさん持ってらっしゃるんですね。」
 安物の旅装束に、くすんだ長めの金髪を無造作に紐でくくっているその男は、 そう言って人なつこい笑顔でくすりと笑ってみせた。



 神父が自室へと案内すると、その旅人は、くつろいだ様子で、差し出されたた香茶の杯に口をつけた。
「よく訪ねて下さいました。随分、お久しぶりですね。」
 神父はまず、そう言った。旅人はすぐには応えず、煎れたばかりの温かい香茶を充分に味わって息をついてから、口を開いた。
「‥‥‥ええ。でも、あまり会わなかったのに。お忘れなんじゃないかと思ってました。」
 くつろいだ様子の男に、神父は答えた。
「憶えていましたよ。それというのも、殿下が‥‥‥失礼、今はイザークの国王陛下でございました。あなたのいらした時に、あんな風に慌てていらっしゃった、その光景はなかなか忘れられませんでしたから。」
 少し笑いながら、神父はそう言った。男と向き合う形で椅子にかけると、窓から陽の射し込む机の上で両手を組んで、言葉を続ける。
「子供達の前では大人びた態度をとっているのに、昔の仲間に会われると、あの方は年相応に‥‥‥失礼ながら、少しだけ、幼くなられました。滅多に無い事ではありましたが‥‥‥。たしか、デューさん、とおっしゃいましたね。」
 神父の言葉に、男―――デューはくすりと笑ってみせた。
「あの時は、驚かれたでしょうね。‥‥‥今日だって突然に来たんですけど。」
 言って、また一口、香茶に口をつける。受け皿にカップを置いて、今度はデューの方から言葉を発した。

「戦が終わってから、皆、それぞれの行き先へ旅立ってしまったって聞いたけど。神父様、寂しくないですか?」
 少しからかうように言われても、神父は穏やかに笑ったままで言った。
「寂しくないと言えば、嘘になるでしょう。‥‥‥ですが、皆様とてもよくして下さいますから、この院も人が増えましたし。イザーク国王陛下、グランベルの聖王陛下、それにシアルフィ公をはじめ、稀ではありますが、皆様手紙を下さる事もあります。寂しいばかりではありません。」
「神父様は、ずっとここに?」
「グランベルでお務めするようお誘いも受けましたが、私にはこの土地が合っているようですので。‥‥‥あなたは、今はどうなさっているのですか?」
 訊ね返されて、デューは頭を掻きながら、くすりと笑った。
「‥‥‥相変わらず、宛てもなく彼方此方を流れてます。一つの所に落ち着くのも、悪くないかも知れないけど。好きな時に、好きな所へ‥‥‥それが性に合うんですよ、昔から。」
「それで、今日はこちらが気が向かれたのですか?」
 神父に口調を真似て答えられて、デューはまた笑った。
 すぐに答えようとして―――つい、言葉に詰まる。

「‥‥‥‥ええ、そう。ちょっと、気が向いたんです。」
 口元の笑みを微苦笑に変えて、歯切れの悪い口調でそう言った。その様子に気付いたか、神父が少し、怪訝な顔をする。
 笑顔を作り直して、デューは、ここを訪れたその「用」を口にした。

「エーディンさん‥‥‥元気にしてます?」



 神父の見せた反応をどう解釈していいのか、とっさにデューは計りかねた。
 驚いたような、意外そうな顔。それから、納得したような顔。困惑したような、それでいて嬉しそうな顔。かと思うといつのまにか、ほんの少し、寂し気な苦笑めいた顔‥‥‥。
 迷える人々の懺悔を聞くのがお務めの神父様が、こんなに素直に感情を表に出してもいいのだろうか。神父の表情の変わり様がどういう意味なのかわからなかったので、デューはなんとなく、そんなどうでもいいような事に、一瞬注意をそらされたりもする。
 ともあれ、何か、おかしな事でも言ってしまったのだろうか。なんとも言い様がなく、とりあえず、神父が何か言ってくれるのを待つ事にする。

「‥‥‥ああ、申し訳ありません‥‥‥なんとお話ししたらよいものか、わからなかったものですから。‥‥‥そう、貴方は御存知ではないでしょうね。」
「何かあったんですか?」
 少し心配になって、デューは訊ねた。何しろ、何年も消息を断っていたも同然の身でいたから、知人友人のことは風の噂程度にしかわからない。姿を隠していたエーディンのことなど、彼は全く知らなかった。
 彼女の身に、何かあったのだろうか。デューの顔に不安が出ていたらしかった。神父は安心させるつもりなのだろう、穏やかな笑顔を彼に向けた。
「何か不幸があったとか、そういう訳ではありません。‥‥‥彼女は、もう此処にはいないのです。旅立って行きました。」
「‥‥‥?」
 困惑が顔に出たのだろう。神父がくすりと笑って付け加えた。
「ええ、文字通り、『旅立った』のですよ。此処を、出て行きました。」
「‥‥‥」
 神父に説明の意味が、デューにはよくわからなかった。エーディンが、この院を出たという。そんな事をする理由が、彼には思い当たらない。
 否、思い当たらないのではない。彼女がここを出る理由は一つしかなかった。
 だが、そんな事がある筈はない‥‥‥。

「‥‥‥まさか。」
 応えられぬ期待はするまい、そう思って混乱する中、やっとのことで呟いた彼に、神父はもう一度笑いかけた。
「ええ。そう、仰ると思いましたが。‥‥‥彼女を、迎えにきた方がありましたので。」



 言葉も無くなったデューに、神父は笑顔で「その時」の事を話し始めた。

 見知らぬ旅人が迷いこんできた事、その男が自分の記憶の無かった事、話を聞いてもしやと思いエーディンに合わせたところ、男が彼女の事を思い出した事、その旅人が、バーハラで消息を断った彼女の長い間の「待ち人」であった事、その後二人が旅立った事‥‥‥‥。


「貴方と彼等が懇意にしていたという事は、伺っております。以前貴方が訪れた時、すぐに旅立ってしまった、その訳も。‥‥‥あの方にお引き合わせする事はかないませんが、貴方にとっても、これは吉報ではありませんか?」
 そう言うと、神父は何か、細い札のような形のものを1枚、取り出してみせた。声もなく、やや呆然としたまま、デューが手にとってみると、どうやら薄い木の皮を編んで作ったもののようだった。中央部に、押し花が一輪、丁寧に編み込んである。端には色とりどりの刺繍糸を1本に編んだものが結びつけてあって、素朴だが、丁寧で綺麗な造りをしていた。
 何より、編み込まれた押し花が少々変わっている。多少変色してしまっているが、花びらが濃い青色の、珍しいものであった。

「この花‥‥‥。」
 デューはじっとその押し花を見つめた。彼は、その花に見覚えがあった。
 デューの脳裏にある、古く、懐かしい記憶。その中で、エーディンがその服の胸元をいつも飾っていた、花を模した木彫りの装飾品。それは、彼の目の前で、恋人となる青年からエーディンへ送られたものだった。
 その意匠と、同じ花。
 神父が口を開いた。
「これは、あの方が作られて、いつも大切にしていたものです。旅立ちの際に、『お世話になった皆さんに、良い事がありますように』と、そう言って置いてゆかれました。‥‥‥不思議なものです。この花は、この地には咲かないものなのだそうです。一体、何処から授かったものなのか‥‥‥あの方の周りには、奇跡が招き寄せられるのでしょうか。」
 デューは、神父の言葉には応えなかった。黙り込んだまま、エーディンが作ったという押し花を膝の上にとり俯いて、その視線を送り続けている。
 神父は様子を伺うように、ちらとその顔を覗きこんだ。が、そこに浮かんでいる表情を見て、すぐに満足そうににこりと笑った。

「お茶を、煎れ直して参りましょう。」
 静かに席を立って、そう声をかける。が、じっと物思いに沈んでいるのか、この唐突な客人は、神父が立ち上がったことにも、かけられた言葉にも気付かないようであった。しかし、少しも気分を損ねた様子もなく、神父はくすりと笑って、茶器を持ってそっと席を立った。



 独り残された部屋の中で、手の中の押し花に尚も視線を注いだままのデューは、身動きの一つもしない。
 ただ、その表情は、どうしても、沸き上がる笑みを押さえきれないようであった。





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