デューが机の上に並んだ料理を一通り片付けて一息ついた頃、女将が再び彼の部屋へとやってきた。
「御馳走様、美味しかったよ。」
デューはにこりと笑ってそう言ったが、女将は何やら不機嫌な様子で、さっさと卓上の片付けを始める。先程何事があったのか、どうも気分を損ねているらしかった。
「ああ、それは良かった。それにしても、ああ、いやだいやだ。お客様とはいえ、酒で無駄に気が大きくなった奴なんて、たちが悪いったらありゃしない‥‥‥と、お客さんにこんな事言っても仕方なかったね。」
言いながらも、手際よく机の上の皿を取り上げていく。相変わらず、よく口を動かしながら、それに負けないくらいの勢いで手を動かすのが女将の特技らしい。てきぱきと片付けられる皿をぼんやりとながめながら、デューは女将の愚痴やら世間話やらを、時折相槌を返しながら聞いていた。
「今日に限って言えば、お客さん、部屋で食べて正解ですよ。飲んで騒ぐのは構わないけど、あの騒ぎの収まりの悪さはどうにかならないもんかねぇ。食事に来たお客さん、何人か嫌がって帰られちゃいましたよ。」
「‥‥‥でも、ま、人がいなくて寂しいよりはましじゃない?」
くすりと笑って口をはさむと、女将はやや不満げに口を尖らせていった。
「そりゃあそうだけど、なんせ、後始末が大変でねぇ。どうせ騒ぐなら、喧嘩じゃなくてせめて人寄せになるような事やってくれればいいのに。吟遊詩人が謳ってくれるとか、踊り子が舞ってくれるとか‥‥‥喧嘩の野次馬なんて、客にならないくせに客の邪魔はするんだからねぇ。まったく、厭になりますよ。」
「商売人だねぇ、女将さん。」
都合のいい女将の言い種に、デューは笑った。
「‥‥‥ここは、随分変わったね。賑やかで、オイラがいた頃に戻ったみたいだ。」
―――いや、それ以上かな。
ふと、感慨の入り交じったような小さな笑みを口元に浮かべた客を、女将を首を傾げて見た。
過去を振り返るような表情は、この男の若さを残した顔にあまり似合わない気がする。といっても、女将は彼の実年齢を知っている訳ではないから、似合わないのは単に顔の造りのせいかもしれないのだが。
「‥‥‥お客さん、なんだか変わってるねぇ。いや、何が変だとかおかしいとか言うんじゃないんだけどさ。」
言われて、デューはゆっくりとした動作で女将の方を向いた。どうしてそんな事を言われたのかよくわからなかったので、小さく首を傾げてみせる。
とりとめもない、懐かしい気分にひたりかけたところを引き上げられてしまった気がしたが、気分を悪くする程の事でもない。それより、自分は何かおかしな事を言ったのだろうか?ぼんやりと考えながら、くすりと笑って、「そう?」と問い返した。
「なんかねぇ‥‥‥ああ、そうだ、思い出した。しばらく前にね、ちょっと変わった二人連れがお泊まりになってね。お客さん、その人達に似てるんだ。」
女将の口にした言葉の大方を、デューは聞き流していた。ありきたりな世間話の一つに違いない、昼食の時に散々聞かせられたことと大した差はなさそうであったから。
旅の疲れに食後の快い満腹感、それに少しだけ口にした安酒が影響してか、彼の頭は薄い靄がかかっていて、女将の際限ない長話を集中して聴くだけの明敏さと根気強さには欠けていた様だった。
「へぇ‥‥‥。ってことは、外国人?」
何気なくした彼の問いに、女将は頷かず、勢い込んで話しはじめた。
「それがねぇ、どうも夫婦の旅人だったらしいんだけど。奥さんの方は間違いなく外の人なんだが、旦那の方が、なんだか同郷の様でね。似てるっていったのは雰囲気の話。その二人連れ、お客さんよりも変わってるように見えたけど。なんせ‥‥‥」
まず、商人でも職人でもない、ただの旅人が来る事が少し珍しい。‥‥‥といってもこれはデューも同じ事であったが。それから、その旅人の一人が外国人の女であった事が、更に珍しい。この土地の者らしき男と外国人の女が、その年代で夫婦として過ごしているのが珍しい。この土地の人間が外に出ていた事が珍しい‥‥‥‥と、次々と、その風変わりな二人連れについて女将が述べるのを、デューはなんとはなしに相槌をうって聞いていた。
「で、その奥さんの方がすごくお綺麗な方でね。線が細くて、きらきら光る髪に、真っ白な肌の‥‥‥アグストリアやグランベルあたりのお人だろうけど。にっこり笑った顔がまた素敵な御婦人でしてねぇ‥‥‥。それから」
今まで忘れていたという割に、よく喋るなぁ。そう思って、デューは気付かれないように、くすりと笑った。
一度思い出したからには、ことこまかな部分まで、記憶が甦るのかもしれない。よほど印象が強かったのか、「雰囲気の似ている」というデューを見て思い出したのか、どちらだろうか。
「それから」と言葉を切った後、女将は続けた。
「旦那の方も、これがまたいい男でねぇ。背が高くて、切れ長の目で、愛想は悪いけどそれがまた渋くって。で、奥さんと話している時に通りかかると、すごく穏やかな低い声が聞こえるんですよ。」
女将は他にも色々とその二人連れ、特に男の方について、あれこれと話して聞かせた。どうせ聴くなら、男前の旦那の方より、美人の奥さんの方の話を聴きたいなぁと、デューも下らない事を考えたが、女将の方は彼と意見が違っているらしい。話し続ける中でも特に生き生きとした調子になったのみて苦笑しながら、机に肘をついて、「へぇ」と声を出した。
「そんなにいい男だったんだ。」
「そりゃあもう、ここ十年以上も、あたしは旦那以外にあんな男前は見てませんよ。ああ、勿論お客さんも素敵ですけど」
失言に気付いたのか、取って着けたような女将の言葉に、デューはくすりと笑って「そりゃどうも」と答えた。
「本当、あれは外でも人目を惹いたに違いないわね。元々変わった二人連れだったし‥‥‥ああ、亡くなられた先の殿下が御存命だったなら、ああいう渋い男になってたのかもしれないのにねぇ。」
女将は話を途切れさせて、小さな溜め息をついた。
デューは小さく苦笑した。先程「神技殿下」などと口にした事といい、この女将は、よほどその「王子様」に思い入れがあるらしい。
「さっきも『殿下』って言ってたね。女将さん、よっぽど好きだったんだね。」
デューの言葉に、女将は一瞬きょとんとした顔を見せた。
「‥‥‥。そりゃぁねぇ。」
妙にしみじみとした声で、女将は少し考えた風に話し始めた。
「あの頃あたしくらいの歳の娘は、多かれ少なかれ、皆憧れたものですよ。ほら、亡くなった人の事を言うのもなんだけど、兄君二人が色々問題のある方だったし。そこに、末の王子は若くて素敵で、おまけに優しくてお強いときたら、そりゃ好かれない方がおかしいでしょう?」
言われて、「なるほどね」と、デューはつい納得してしまった。
最も、本当にそれだけで好かれた筈ではないと、わかってはいたのだけれども。
「‥‥‥ってことは、その旅人夫婦の旦那さんの方は、かなり誉められたもんだね。」
肩を竦めて、デューは女将に訊ねた。女将が「そうねぇ」と答えたのを見ると、つい茶化してやりたくなった。
「案外、本人だったかもよ?」
言ってから、デューは少し後悔した。なんとなく、自嘲的な気分が沸いてきたのであった。
本人だったならどんなに良いかと、そう思っているのはおそらく自分自身だろうに、それを他人に向けて言うとは。夕食もとって落ち着いたらどうも調子に乗りすぎたかな、と、声には出さずに自省する。
尋ねられた女将の方は、彼のごくささやかな落ち込み気分などには気付きもしない様であった。「まさか」と、少し笑って答えた。
「その旦那さん、片腕の具合があまりよくないらしくて。あれじゃ、殿下の十八番だった弓は使えないし。火事だかなんだかだったかしら、昔、事故で怪我したからっていう話でしたけどね。」
火事で怪我ねぇ。デューは苦笑した。
それこそ、なんだかありそうな話だけど。
しかし、先程の心地悪さがまだ完全に晴れずにいたデューは、思った事を口には出さず、「へぇ」とだけ答えて、小さく首を傾げてみせた。
下らない事を言ったと思ったが、女将は全く気にしていない様だ。どうやら居心地の悪い気分を味わったのは自分だけで済んだらしいと思うと、少しだけ救われた気がする。
やがて、片付けをしながら更にいくつか長話を聞かせて、女将は部屋を去っていった。一人いなくなっただけで、随分静かになってしまった部屋をなんとはなしに眺め回してから、デューは息をついて、寝台の上に身体を投げ出した。
横になるとすぐに、それまでほとんど感じていなかった疲労が、どっと降り掛かってきたのを感じた。
「‥‥‥あーあ。」
なんだか疲れたなぁ。
呟いて、すぐ脇の窓から差し込む星明かりに、億劫そうに片手の平を夜空へ向ける。
北向きにしか窓がないというからには、朝日も差し込まぬ窓を寝台の横につけたところでどうという事もないのではないか。そう思ったが、澄んだ空に星の光る様が寝転んだまま眺められるのに気付いてみると、まぁそれなりの価値がありそうだという気もしてくる。小さな溜め息をついて頭を少し掻くと、その手で前髪をかきあげるようにしてから、両手を頭の後ろで組んだ。
この街に着いた時には気付かなかった疲労感が、今は全身を包んでいる。
あるいは、気付かなかったのではなく、単に感じていなかっただけなのかもしれない。久しく訪れなかった場所の、活気溢れる様を目にして、確かに一時、彼の心は躍った。
一つには、懐かしさから。一つには、失われた筈の景色が、それまで以上の形で、そこに在るという事実から。
しかし、足を止め、宿をとってその浮いた気分に浸りはじめると、すぐにそこに欠けているものに気付いてしまう。それがデューに、感じなかった疲労を感じさせ、慣れない堂々回りの思案に暮れさせ、彼の笑顔を苦笑に変えさせた。
活気のある街、生気ある人々の顔、澄んだ空気、そして懐かしさ。彼にはそれらが嬉しかったけれど、彼以上にそれを喜んだ筈の者達が、そこにはいなかった。
一番必要なものが、そこには欠けていた。
「‥‥‥‥。」
考えても仕方の無い事と知ってはいても、つい考えてしまう。今まではそんな事も無かったが、この地を再び訊ねたからには、思い浮かんでしまうのも無理もないといえばそういうことになる。
彼は感傷に浸るのは厭だったから、もうずっとここを訪れる事がなかった。といって、今になって突然やってくる気になったのも、奇妙な話だといえばその通りなのだが‥‥‥。
「‥‥‥‥。」
‥‥‥‥さっき、あの女将さん、なんて言ったかな。
背が高くて無愛想な男の人と、きらきら光る髪に白い肌の夫婦連れだっけ?
とりとめのない思案は、次第に先程の女将との会話の内容に向かう。堂々回りにならないようにとは思うのだが、他に考える事があまり無いのだから仕方ない。
でも、話に出て来たの、ほんとにあの二人みたいだったなぁ。女将の言葉の詳細を思い出して、デューはくすりと笑った。
ほんとうに彼等が帰ってきたらどんな顔をしただろうかと、彼は考え始めた。
あの二人が、今この土地に戻っていたら?
‥‥‥‥。
「二人」のうちの一人―――『彼』は、ただ、今あるこの風景を求めていたのに違いなかった。
幾度となく袋小路に突き当たりながら、悩んだ末に答えを出すまでどれだけの歳月がかかったか、デューは知らない。
だが、その悩む姿は知っていた。迷いに迷い抜く上で、その男が己の恋心さえ自由にならなかったかもしれない事も知っていた。
自分の望み故にあまりにも不自由であった青年は、それでもこの他愛無い平穏に焦がれ、愛しい人にそれを見せたいとやっきになっていた。そして、その為に答えを求めて思い悩んだ。
この他愛無い平穏は、その当時、夢物語と同じもの、一人の人間が望むにはあまりにも遠い理想であったから。
とはいえ、デューにしてみれば、面倒な事にこだわってろくに楽しみも知らず、その為に些細な事に悩まされてばかりいるとしか思えない。
それなのに、ほんの少し―――少しだけ、羨ましいと思う事もあったのは何故だろうか?
あんな理想を抱けるのは、彼が生活の不自由の無い境遇だったからではないかとも思えた。自身の生活に手一杯なのに、どうして自分に関わり無い大勢の事を気に掛けられるものか、と。彼のように恋しい故郷がある訳でもないデューには、自分の理想を持つだけの余裕すらなかったのかもしれなかった。
それでもしかし、デューは僅かばかり羨みこそすれ、妬みはしなかった。それが自由な意志と引き換えの理想であったから、自由な身である事を楽しむ彼がそれを妬む事はなかったのだった。
―――ただ、自分の得られなかった生き方をする青年にほんの少しの興味が沸いて、それと同じくらいほんの少しの時間を、彼を見ているのに費やしてみるのもいいか、と。
そう、思っただけで。
‥‥‥もしその男がここにいたならどんな顔をしたか、それには興味がある。喜ぶのは間違いがないと思うのだが、それだけだろうか?
それに、彼の側にいるはずの、あの優しい人は、どんなにか綺麗に笑う事だろう―――?
「‥‥‥‥。」
‥‥‥あの綺麗な人は、ここに来られるのに。デューは思った。
彼等が二人一緒に来るのでなければ意味が無いとは知っているのだけれど、それでも、あの女性が、この景色を一度見てみればいいのにと思う。
自分達にとって、一番必要な者がその景色には欠けている。それでも、少しは慰められるのではないだろうか?居て欲しい人のいない、独りきりの時間を過ごしてきたあの人ならば、デューの様に今さら思い出してそれが疲労に変わってしまうという事も無いだろう。今更の事なのだから。
それなら尚更、今ある光景には慰められるのではないだろうか。
「‥‥‥‥。」
‥‥‥デューは小さく笑って、頭の後ろで組んでいた手をほどき、片手で目の上を覆った。
また、面倒な考え事をし過ぎている‥‥‥。
細かい事を思案して理由をつけるのは、彼でなくて、いなくなったあの青年のやり方だった。
いつも相手への気遣いから事を起こそうとするのは、あの優しい人の作法である。
「会いたくなったから会いに行く。‥‥‥オイラは、それでいいや。」
もしかしたら、少しでも、昔みたいに笑ってくれるかもしれないし。
デューと、彼と正反対の生き方をした男、二人にいつも優しい笑みを向けていた女性。
その人は、まだあの修道院にいる筈だった。
明日の朝、ここを発とう。そう決めると、少しだけ身体の疲労感の軽くなったのを感じながら、彼は降りて来た睡魔に身を任せて、ゆっくりと目を閉じた。
『あなたは、どうしてこんな牢に?名前は何というの?―――そう。私はね‥‥‥』
『条件は二つ。一つは、二度を盗みをはたらかない事。もう一つは、彼女を仲間達の元へ送り届ける事だ。勿論、無事にな。‥‥‥できるな?』
‥‥‥久しく訪れなかった土地で過ごした夜。
その日は、懐かしく、優しい夢を見た。
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