―――物語は、少しだけ過去に遡る。



 緑の陰が、視界いっぱいに広がっている。
 木肌の暗みがかった灰褐色、陰の落ちた茶の色。鮮やかな葉の色に彩られ、深緑と木漏れ日に囲まれた深い森の奥に、柔らかな昼下がりの日射しの元、木々に囲まれて目の醒めるような藍青色の咲き乱れる、小さな空間がある。

 鬱蒼と茂った草の群を抜けた先、むせ返りそうなほどの草葉と水の匂いに、訪れる者は包まれるであろう。地面に降り注ぐ柔らかな光を受けて、深く、鮮やかな青色の花が群生し、さながら水に濡れた青玉が、地面に密集して散らばっているような光景。清い空気に、頭上を見れば新緑に金色の木漏れ日の眩しさ、足下には藍青の澄明な輝き。
 そこは、そんな場所であった。

 青花の群れの中に、人影が二つ見える。日除用の薄手の外套をしいた上に座り込む、端正な目鼻立ちののった白晢の女で、亜麻色に照りかえす金の髪の婦人である。その膝を枕にまどろむのは、有為な体躯、日に焼けた肌に褐色の髪の男。
 金の髪の女は、自分の膝の上で静かな寝息をたてる男の、顔にかかる髪、舞いおちてくる木の葉を、白い手でそっとよけてやる。腕のいい職人の作った女神像のように整ったその顔には、しかし彫像にはない、温かな眼差しと穏やかな笑みが浮かんでいる。
 それは、奇妙な光景でもあった。女の髪には、まるで小さな子どものするように、足下に咲くのと同じ、藍青の花が無造作に、いくつも飾られている。彼女には幼すぎるようにも見えるその飾りは、しかし二人のまとう浮き世離れした空気に、全く不釣り合いではないようであった。
 土地の者が迷いこんでこの光景を見たら、こう思ったかもしれない。

『金の木漏れ日の精が、捕らえた恋人と憩うのを見た』



 婦人の白い手が、また動いた。今度は髪や木の葉をよけるためではなく、しなやかな指は、恋人の褐色の髪に触れ、静かにそれを梳きはじめた。動いたその手で顔にかかる陽が遮られたせいか、男が静かに瞼を開く。
 切れ長の目の中にある暗い褐色の瞳は、深く澄んでいた。

「‥‥‥お目覚めですか?」
 目を開けた男を見て、女が手でその頬に触れながら口を開くと、鈴を鳴らしたような声が流れる。
 男は頬に触れる手をとって口付けた。端正な白い顔、木漏れ日に光る金の髪とそこに映える藍青の花、更にその上の緑の木々が、澄んだ褐色の瞳に映る。
 瞳の中で、白晢の女がまた、微笑む。花が咲いたような笑みであった。

 男は深く、静かに息を吐き出した。

「目‥‥‥醒めているのかな。」
 白い手を軽く握ったまま、顔を覗き込む恋人をじっと見つめながら、男は低い声で、そんな事を言った。女が小さく首を傾げる。
「目を開けたのに‥‥‥夢から、醒めない。」

 続けて出た男の言葉に、女は再び首を傾げて、男の顔を見返した。
 恋人の見せた表情に微苦笑を洩らして、男は弁解するように言った。
「‥‥‥柄じゃないのは、わかってる。それでも‥‥‥冗談でも、嘘でもない。」
 女がくすくすと笑い、次いで微笑んだのを見て、男は小さく笑い返した。身体を起こしてその場に立ち上がり、恋人の前に手を差し出す。
「日も傾き出した。‥‥‥帰ろう。」
 男の言葉に、もう一度笑いかけて、女はその手をとった。





 人の流れの中を、一人の青年が駆けていく。
 友人との待ち合わせの時刻に遅れてしまったのだ。まずいぞ、と思いつつ、向かい側から来る者に何度もぶつかりそうになりながら、それでも慌てて走り抜けようとする。やがて相手の不機嫌な顔が脳裏に浮かんだ時、その足の動きは更に速まった。

「―――うわっ!」
 慌て過ぎたのだろう。とうとう、彼は通行人にぶつかってしまった。急いで後ろへ下がり、相手の顔も見ずに頭を下げて「すみません!」と声を張り上げる。恐る恐る顔を上げて、彼はわずかに口を開けたまま、動けなくなってしまった。

「どうぞ、お気になさらずに。」
 そう言って彼に微笑んでいたのは、日除用の外套を羽織った異国人の婦人である。否、その装い自体はこの土地では珍しくもなんともない。彼の目を奪ったのは、外套の頭巾の陰にわずかに除く、その白い肌と、柔らかな笑みを浮かべる端正な顔立ちであった。白い手が頬のあたりに伸びて、頭巾からこぼれる輝く金の髪を耳にかけた。
 青年は、女の耳元に小さな花飾りらしきものを見たような気がした。が、頭巾の陰に隠れて、判然とはしない。
 連れだろうか、背の高い男が何やら呟いた。婦人はそちら小さく頷いたかと思うと、軽く頭を下げて、ふわりと優雅に身を翻し、みとれたままの青年の前から歩いて行った。頭を下げ返す以外に返事のしようもなかった青年は、歩き去る婦人の後ろ姿に、ぼうっと視線を送った。
 連れの男は、おそらくこの土地の人間であろう。婦人に向かって何やら呟き、婦人がそちらを向いて「ええ」と答えているのが聞こえた。大丈夫か、とでも問われたのだろうか。

 しばらく二人連れを見送っていた青年は、ふと自分の状況に気付いた。友人を待たせていたのだ。再び慌てて駆け出し、目的の場所につくと、案の定、彼を迎えたのは、眉をつりあげ、口元を尖らせて腰に手を当てた友人の姿である。自分よりも上背のある青年を睨み付けているそれは、彼と同年代の娘であった。
「何をしていたの。」
 午睡していて寝過ごした青年は、問いつめられて上手い返事も出来ず、言葉を濁した。当然、娘は不機嫌なままだ。
「それに、何だか知らないけれど、ひとを待たせたまま、向こうで立ち止まっていたでしょ。」
 そう怒られた途端、先ほどの美女の事を思い出して、青年は状況も忘れて口を開いた。
「ああ、さっきすごい美人がいたんだ。肌が真っ白で、髪がきらきら光って‥‥‥外国人かな。精霊様が森から出て来たのかと思ったよ。頭巾のせいでよく顔が見えなかったのが残念‥‥‥」
 そう言ってまくしたてる最中に、青年は、突然足下を襲った激痛に、声も無くして飛び上がった。

 彼が辿り着いた時よりも、つりあげた眉の角度を更にあげ、眉間には皺をよせて、尖らせていた口を真一文字に引き締めて思いきり青年の足を踏み付けたのは、勿論目の前の娘であった。
 自分も先程まで、異国人の婦人と二人連れで通りすがった、端正で精悍な顔立ちの背の高い男に見とれていたという事を、彼女はすっかり忘れ去ってしまっているようである。

 最低の状態にまで知人の機嫌を損ねてしまった青年が、その赦しを得るために長い時間を費やす間、くだんの「精霊様と連れの背の高い男」は、その後も目ざとい幾人かの注意をひきながら、一件の宿屋へと向かっていった。





 日も暮れる時刻となると、宿屋と兼ねて食堂を経営している者は、目の回るような忙しさに追われる事になる。客の鼻をくすぐるような芳香を漂わせて、料理を運んでいくたびに次の卓から声をかけられ、女将は威勢よく返事をしながらその応対をこなしていた。
 宿泊客だけでなく、外部からも食事をとりに訪れる客が多い。人の入りが多いのは繁盛の証拠であるから、女将は忙しいのも苦にはならなかった。合間合間に愛想よく短い会話まで交わすのは、商いの技術である以上に、客と話す事が楽しいからでもある。いくつかの卓から客が席を立つのを見て、次の客を呼び込もうと、接客の合間に入り口へと向かった。

「あら、お帰りなさい。今夜はお食事はどうされます?」
 先日から宿をとっている夫婦連れの客が帰ってきたのに出くわして、女将はそう声をかけた。男の方が短く「部屋へ運んでくれ」と答える間に、女の方はかぶる頭巾をやや深くして宿の中へと入っていく。
 男が後に続いて入ろうとした時、出て行く客とぶつかってしまった。不機嫌に眉を顰める客に、男は低い声で短く謝罪の言葉を口にした。彼が左腕を引けば、衝突せずに済んだであろう。
 しかし、様子を見ていた女将がすばやく仲裁に入り、その場は事無きを得た。男がその客を避けられなかった理由も、女将は聞いていたので。

 その二人連れが宿の中へと入り、あてがわれていた2階の部屋へと向かったのを見届けて、女将は客寄せを再開した。





 ―――客室の一つであるその部屋は、二人以上で使えるようになっているのだろう、通常のものより、やや広い感があった。
 日も暮れる時刻、無人の室内は暗い。その外に、足音が響いた。扉が開き、室外の灯が室内を照らす。薄暗かった部屋は、一部が照らし出されたせいで、部屋の奥の暗さがいっそう際立った。二つの人影が足を踏み入れ、室内灯に火をともすと、ほどなくその闇も部屋の隅へと追いやられる。

「下は、賑わっていたわね。ここの人も、忙しそう。」
 部屋の明かりをつけた人影は涼やかな声でそう言うと、外套を外し、部屋の隅の寝台に腰を落ち着けた。華奢な身体で、長い金の髪に色鮮やかな、小さい青い花を飾っている。先ほど、町の青年にぶつかった婦人であった。
 部屋の戸を閉め、もう一つの人影が椅子の一つに腰を下ろす。無論のこと、婦人の連れであった背の高い男だ。陽の射さない時刻とあって、部屋の灯の元では、きらきらと光る女の髪に対して、褐色の髪の男の姿は少し影になって見える。
「この分では、夕食を運んでくるのは少し先になりそうだな。‥‥‥構わないか?」
「ええ。大丈夫よ。」
 にこりと笑って答える婦人に、男は微苦笑を返した。椅子から立ちあがると、寝台の側へ歩み寄り、恋人の左隣に腰を下ろす。

「‥‥‥悪いな。」
 低く、呟くような声に、小さく首を横に振って女が言った。
「構いませんわ。それに、あまり、大勢の居る場所へは行きたくないのでしょう?」
 女の言葉に、一瞬黙り込んでから、男が答える。
「‥‥‥憶えている者もないだろうが。昔の知り合いにでも会ったら面倒だからな。」
 苦笑を深くして、ぽつりと呟くように続ける。
「‥‥‥『死人』が戻っても、面倒事しかないだろう。」



「‥‥‥あなた?」
 呼び掛けると、女は、傍らで黙り込んだ恋人の頬に手を伸ばした。白い手が、男の顔にそっと触れる。男はその手に自分の手を伸ばして、重ねた。
 しばらく沈黙が流れる。
 
 やがて小さな溜め息が一つ、男の口からこぼれでた。
「‥‥‥欲なのか、これは。こんなに幸せな時も無いのに。‥‥‥つい、余計なことを思い出す。」
 考え込むような表情で、なおも少しの間黙り込んだ後、焦点の合わない目で、男はぽつりぽつりと語り始めた。


「‥‥‥なりたかった訳じゃないんだ。英雄にも‥‥‥王にも。」
 頬にあった恋人の手を押し返すようにして離させると、その手で、肩口に流れる金の髪の一房をとる。自分の顔を見つめたまま、じっと声に聞き入る恋人の髪をいじりながら、無表情で、男は一言呟いた。
「ただ‥‥‥此処が好きだった。」
「‥‥‥‥。」
 黙ったまま、じっと自分の顔に視線を向けている恋人を見つめ返して、自嘲めいた微苦笑を浮かべてみせる。
 「英雄」や「王」になりたいわけではなかった男。それでも、かつて彼は「それら」になろうとしたのだった。否、一時は「そう」であったのかもしれない。
 「そう」なることを望んだのは彼の愛しんだ故郷であり、そうさせることで、男に守り人たるを求めていたのだった。そして、彼が本当になりたかったのは、その守り人であった。

 ―――今では、「それら」は現在二人のいるその国の、領主の呼び名となっている。
 彼の名は、記録にはほとんど残されていない。



 男はまた苦笑して、ゆっくりと左手を身体の前にかざし、ぎこちない動きをするその手を見ながら、また言った。
「‥‥‥弓の引けなくなった狩人か。全く、『死人』だな。」
 少しの間、何とはなしに、じっと左手を眺めていた。
 日頃から訓練として意識して動かすようにしているものの、その度に、鈍い動作に軽い焦燥感と寂しさが沸く。何年も前から、得意だった弓も手放してしまった。人とすれ違う際にぶつからないよう避ける、そんな僅かな動きも思うようにならない手―――。

 不意に伸びた白い手がその左手をとり、引いた。手を引かれるままに男が振り向くと、少し悲しそうな目でその左手を見つめる己の妻の姿が視界に入った。
 俯き加減で見ていた、その頬にかかる金の髪が揺れると、女はいとおしむように彼の左手を胸に抱いた。悲し気な色を見せていた目を伏せ、口元に、小さく柔らかな笑みを浮かべる。
「‥‥‥それでも。『あの子』をこの地へ連れて来たのは、あなたの物語なのですから。」
 そう言うと、男の顔を見た。
「どうぞ、御自身を無為なものとはお考えになりませんように。」

 笑いかけられて、男は戸惑いがちに笑い返した。その顔を見て、女は続けた。
「それとも‥‥‥寂しい?」

 恋人の発した問いに、男はまた、少し驚いたようであった。
 しばらく言葉を探していたようであったが、やがて苦笑すると、小さくかぶりを振った。
「‥‥‥否。憶えていて欲しいとも思わない。そんな必要も、無い。」
「‥‥‥。」
 じっと見つめる恋人の顔を少し見返して、呟くように続ける。
「ただ‥‥‥こんな時を過ごす事になるとは、夢にも思わなかった。それに‥‥‥」
 そこまで言うと、男は、恋人の顔から目を逸らして、もう一度苦笑した。

 望んだものは目の前にある。それは、彼がずっと求め続けていたもので―――彼が空白の時を過ごす間に、別の者の手によって創りだされた景色だった。
 経緯はどうあれ、望みはかなった。嬉しくない筈はない。
 ―――だが、それでも。
 できることなら。

「叶うものなら、俺自身の手で今のこの景色を創りだして、捧げてやりたかった。‥‥‥君に。」


 
 ‥‥‥また、僅かな沈黙が流れた。
 不意に肩に重みがかかったのを感じて、男は顔をそちらへ向けた。身を寄せ、頭をもたれかけさせた彼の恋人が、柔らかに微笑んで彼を見ている。部屋の灯に照らし出された笑顔を、しばし彼は見つめた。
「‥‥‥ねぇ、あなた。御存知ないでしょう?私が、今まで何を望んできたのか‥‥‥。」
「‥‥‥?」
 怪訝な顔をする男の顔をみて、くすりと女は笑った。
「勝手な方。一番知っていて欲しい事をお忘れなのね。‥‥‥あなたは、考え過ぎてばかりだから。」
 顔を正面から見返して、続ける。

「どうか、笑顔をお見せ下さい。‥‥‥あなたの下さる言葉は嬉しいの。そんなあなただから、幸せに笑いかけて下さる所を見たいのです。あなたの望んだ世界で、あなたの傍らで。」

 私にはそれ以上のものはありません、と、女はそう言葉を締めくくった。



「‥‥‥‥」
 彼は、恋人を抱き寄せた。
 口元に浮かぶ小さな笑みからは、それまであった影は消えていた。

「たとえあなたの事が忘れられてしまったとしても、この土地が私達を拒む事はもう無いわ。あなたの過ごした頃の記憶を残したままで。‥‥‥静かに暮らす事もできるわ、好きなように。‥‥‥それに」
 甘えるように男に身を寄せながら、女は口調を崩して、言葉を続けた。
「今はもう、何も望みは無いの?」
 そう言って、視線を男の顔へ向ける。
 何度めかの問いを受けて、男は恋人の顔をじっと見ながら考え込み、やがて静かに笑いかけた。
 


 幼い頃から思い続けて来た事は、もう既に彼の手を離れてしまった。得られる筈のなかった自由に、戸惑いもある。
『こんな時を過ごす事になるとは思わなかった』と。
 だが、それならそれで、他に何も望みは無いのかと問われたのなら。

 そんなことも、無いな。

 女の問いに、答える代わりに男は別の事を問い返した。

「‥‥‥明日からは、どうしたい? 行きたい場所はあるか?」
 訊ねられて、女は少し考え込んだ。
「そうね‥‥‥一度ここを出て、アグストリアの方へ行きたいわ。それから、北へ行ってシレジアへ。もう一度、二人で歩くのよ。ユングヴィもあなたにお見せしたいわ。けれど、その前に‥‥‥」
 顔をあげ、恋人の目を覗き込むようにして、嬉しそうに笑ってみせる。片手を胸元へやり、そこを飾っていた何かを軽く握りしめる。
 木製のブローチである。彼女の髪を飾る、小さな花を模したものであった。
「明日、もう一度森へ連れていって。‥‥‥花の咲く場所に。」

 可憐な笑顔を見返して、男も笑ってみせた。
「なら、そうしよう。‥‥‥お望みのままに、な。」
 そう言って、抱き寄せた女の頭に顔を寄せると、彼は白い額に、そっと口付けた。





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