傾き始めた日の射し込む修道院内の少し薄暗い廊下を、修道女が一人、清楚な淡い色の花の束を抱えて歩いている。

 今日一日働きづめであったせいだろう、自分の足どりの重さを、彼女は気にしていた。夕食の時間までは、部屋で大人しく本でも読んで勉強するのがいいかもしれない――そんな事を考えもする。
 だが、彼女はまず神父の部屋へ急がねばならなかった。街から運んで来た花々は、早く花瓶に活けてやらねば萎れてしまう。故人に手向ける為のものは多少元気が無くなってしまうのも仕方ないけれど、部屋に飾るものであるなら、そうもいくまい。

 神父は萎れた花のことを忘れているようだ。だが、客を招く事もあるというのに、いつまでも部屋の机を飾る花瓶にあるのが枯れた花だというのは、見栄えが悪すぎる。
 ひとがよく、穏やかな気質の神父は、他人に対しての配慮は欠かさない人間であったが、時に自分の身の回りを疎かにしがちであった。だらしがないとか、そういった理由からではない。ただ、少し――ほんの少しだけ――「抜けている」所があるだけで。

 余計な事を考えていたので、目的の部屋を通り過ぎそうになった。
 修道女は立ち止まり、慌てて数歩、引き返してきた。花束を抱えたまま、装飾の少ない質素な扉を前に、大きく息をつく。耳元から頬にかかる髪をかきあげ、ささやかに身だしなみを整えて、花を片手に抱え、空いた手で扉を軽く叩こうとする。だが、話し声のような音が、扉をとおして耳に入ってくるのに気付いて、彼女は細身の手を宙でとめた。
 誰か、客人がいるらしい。




「―――腕の怪我は、治りきらなかったそうです。‥‥‥随分苦労をされていた様でした。」
 神父の声が聞こえる。
 何の事についてかはよくわからないが、客との話の真っ最中であるようだ。唐突に入っていくのは、邪魔をすることになるだろうか。修道女が躊躇う内に、今度は客人のものらしい、耳なれない声が聞こえた。
「いいんですよ、多分。今はきっとその方が、あの人、幸せになれる。‥‥‥普段の生活には大変かもしれないけど。」
 少しの間がある。くすりと笑う声が聞こえたような気もするが、扉がしまっているので、小さな音は聞こえない筈だ。聞き知らぬ声の調子から、そんな様子が彼女の頭に浮かんだだけだろうか。
「ねぇ、神父様。‥‥‥お祈りを続けるのが、厭になった事ってあります?」
 同じ声が、そんな問いかけをした。聖職にある者に、直接そんな事を訪ねるというのも、変わった客だ。扉の外で彼女はそう思ったが、神父の答える声よりも早く、同じ声が聞こえてきた。
 部屋の中の客人は、答えを求めて訊ねた訳ではなかったらしい。

「あの人たちは、自分のお勤めが厭になることもあったんでしょう。あの無愛想な奴はその手で弓を引き続けたし、あの綺麗な人はそれでもお祈りをやめなかった。‥‥‥オイラには、わからなかったけど。」
 また、沈黙が流れる。
 なんとなく、邪魔をしてはいけないような雰囲気だ。一体、中で何の話をしているのだろう?気にはなったが入るに入れず、かといって花を抱えたまま一度戻る気にもなれない。少しだけばつの悪い気分で、彼女は立ち聞きのような真似を続ける形になってしまった。
 なおも客人のものらしき声が続く。

「‥‥‥でも、今は少しだけわかる気がする。お祈りをして、もう随分前に諦めてしまったことが、今更―――」
 また、声の主がくすりと笑ったように思われた。
「―――今更、叶うなんて。届いたのはオイラのじゃなくて、あの綺麗な人のお祈りかもしれないけど。‥‥‥別に、そんなのどっちでもいいですし、ね。」
 願えば叶う、などとは思わない。ただ、叶うこともあると思うと、少しだけ嬉しい気がする。ほんの少しは、報いを信じてやってもいいという気がする。そんな内容の言葉を、その声は続けた。
 客人の言葉を、神父は全てわかったわけではないようで、部屋の中からは、あいまいな相槌しか聞こえては来なかった。
「‥‥‥でも、神父様もたまには羽を伸ばしてみたらどうです?オイラみたいに。あの二人も‥‥‥。少し気侭に暮らしてみるのもいいですよ。」
 今度は声をたてて、くすくすと笑う客人とは対照的に、神父の返事は聞こえてこない。生真面目で「粋」とは縁遠い人であるから、からかうようなこの問いかけには、うまい返事が出て来ないのかもしれない。そう、修道女は思った。

 そろそろ、入っても良いだろうか?
 話が途切れた頃らしいのを確かめて、今度こそ、彼女は部屋の扉を叩いた。


 
 刹那の沈黙の後、「どうぞ」と応えた声を受けて、修道女は扉を開けた。
「神父様、ただいま戻りました。このお花を―――」
 部屋の入り口で花束を抱えたまま、修道女は驚いた顔で自分を見ている神父と、机の上に目をやった。
 大きめの、飾り気の無い、白い花瓶が一つ。その中には、彼女が予想していた萎れかけの花ではなく、いきいきと咲いている色とりどりの花々が活けられていた。
「‥‥‥あ。神父様、御自分で買いに行かれたんですか?」
「ああ‥‥‥頼むのを忘れたと思って出かけたのですが、貴女も買ってきてくれたのですか。どうも、申し訳ない事をしましたね。」
 困惑気味に笑う神父に、慌てて修道女は片手をぱたぱたと振ってみせた。
「いえ、そんな‥‥‥。じゃぁ、このお花は、他の場所に―――」
「いいえ、その棚の上に置いてくれますか。‥‥‥せっかく買ってきて頂いたのだから、この花瓶にも」
 言って、神父は花瓶に手を添えた。
「―――この花瓶に、少し頂いて活けておきましょう。全部は流石に無理でしょうけど。‥‥‥ありがとう、時間を取らせてしまいましたね。」
「‥‥‥いいえ、大したことではありませんから。」
 気を遣わせてしまっただろうか。少し申し訳ない気もしたが、神父の向ける穏やかな笑顔に修道女は照れたように少し笑って、棚の方へ駆け寄った。
 と、神父の向かいの椅子の横を通り過ぎようとしたとき、突然、聞き慣れない声―――先程ドアの中から聞こえていた声だ―――が、彼女に声をかけた。
 呼び止められて振り向いた時、彼女は初めて、その客人の顔をまともに見ることになった。




「―――これ。落としましたよ。」
 振り向いた先に、白い花を差し出して笑いかけている男が居た。
 旅塵にまみれた服に、一つにまとめたくすんだ金髪に、人なつこい笑い方。快活な表情が、とても感じがいい。
「‥‥‥あ、ありがとうございます。」
 あまりに楽しげに笑うその顔についみとれてしまって、彼女は少し、口籠ってしまった。それから、この客人に挨拶を済ませていないことに今更気付いて、慌てて謝り、頭を下げる。
 男はくすくす笑いながら、丁度目の前につきつけられた花々―――修道女が花束を持ったままお辞儀をしたのでそうなったのだが―――に、自分が手にしていた花を挿してみせた。
「どうも、お邪魔してます。‥‥‥駄目ですよ、落としちゃ。綺麗な花、折角咲いているのに。」
 言って、また楽しげに笑った。

「シスター、そちらは‥‥‥」
 客人があまり笑うせいか、少し恥ずかしくなった修道女は、口を挟もうとした神父のかけた声にも気付かずに、先程指示された棚の上に、急いで抱えていた花束を置いた。そのまま、静止の声も聞かずに、慌てて部屋の入り口へと向かう。室内に向かって一言口にすると、そのまま逃げるように部屋を出、戸を閉めてしまった。
「それでは、失礼致しますっ。」
 


 閉めた扉の取っ手から手を離せぬまま、その手を背後に回すように身体の向きを変え、彼女は扉に自分の背を預けた。人気の無い廊下で、一人、大きく息をつく。

「‥‥‥珍しいお客さまね。あの髪、外国人かしら?旅人の格好をしていたけれど。」
 それはさておいても、随分と楽しそうに笑う男だった。くすくすと笑う声と表情を思い出して、修道女はつい、つられて笑ってしまいそうになった。先程目の前で見た時は、恥ずかしくなって慌てて出てきてしまったのだが。
「でも、聞こえた限りでは、さっきまで、そんなに楽しい内容のことも話していなかった様だけど‥‥‥何のことだったのかしら?」
 いずれにせよ、とても感じのいい客人であったし、笑い顔はなかなか魅力的で、何より、心の底から楽しそうな印象だったから、きっと、何かいい話があったのだろう、と、適当な結論を出すことにした。
 自分の仕種が笑われてしまったことに関しては、彼女は都合良く忘れることにしている。ちなみに、男の印象が気に入ったので、笑われて不機嫌になる、ということは無い。
「‥‥‥ああ、もう戻らなきゃ。折角用事が済んだのに、全然休めなくなっちゃう。」
 もともと自分が予定していたことを思い出す。もっとも、その時には、その修道女は自分の疲れをほとんど忘れているようではあったので、休息をとる必要など無くなっていたのかもしれないが。
 扉から離れると、窓から射し込む日射しの中を、修道女はそそくさと自室へと戻っていった。


「‥‥‥さて、と。」
 呟いて、デューは席をたった。怪訝な顔をする神父を後目にちらと見ながら、傍に置いていた荷物の紐に片手をかけ、引き上げて肩に担ぐ。
 その場で顔を動かすと、先程、彼等が話をしているときに入ってきた修道女が、花束を置いていった棚が視界に入った。修道女とのやりとりを思い出して口の端に笑みを浮かべると、彼はその棚の側に歩み寄った。
 今日は、花に縁があるらしい。手を伸ばし、束の中から一輪の小さな白い花をとると、顔の前に翳して少しの間、眺めやった。
「この後は、何か‥‥‥ここの他に、急な用でも?」
 神父が、彼の背後から声をかけた。顔だけで振り返ると、神父も席を立ち、彼の方を先程と同じ怪訝な顔で見つめていた。デューは小さく笑い返してみせた。
「いいえ。‥‥‥でも、今日はもう、お暇しようかと思って。」
 言いながら、再び、翳している手の中の花に、視線を戻す。
「しかし、もうすぐ日も暮れるでしょう。今日は、こちらで休んでいかれては‥‥‥?」
 神父の言葉に、デューは今度は体ごと神父の方を振り返り、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。‥‥‥でも、申し訳ないけれど、少し夕陽の中を歩いてみたい気分なので。」

 ―――それに、やっぱりここはオイラが用も無く長居する所じゃないから。
 頭に浮かんだ言葉の後半を、彼は口にはしなかった。



 神父は少し残念そうだったが、やがて、ゆっくりとお辞儀をして、また言った。
「わかりました。どうぞ、お気をつけて。‥‥‥ところで、一つ、伺いたいのですが。」
「はい? 何です?」
「会いに行かれるのですか? その‥‥‥お二方に。」
 少し遠慮がちに訊ねた神父の思いがけない問いに、デューは少し驚いた。神父の顔を見返した後、片手を顎にあてて、少しの間考え込む。
 やがて、くすりと笑って、彼は答えた。

「そうですね―――気が、向いたら。」




 いざ出口へ向かう際になって、デューは神父に問いかけた。
「神父様。‥‥‥これ、頂いていってもいいですか?」
 手にした小さな花を、神父に向かってひらひらと動かしてみせる。神父が快く承諾すると、一言「ありがとう」と返して、再び花を目の前に翳し、小さく微笑んだ。
 出て行こうとするデューを、神父は教会まで見送りに出た。白を基調とした内装に、淡く、緋に色付いた光の射し込む礼拝堂を、会話らしい会話も交わさず、出口へ向かってゆっくりと歩いていく。

 扉に手をかけられる位置まであと数十歩、という所まできて、ふと、デューは後ろを振り返った。
 窓から射し込む、淡い光。彼が見つめる先には、傾きかけた陽に照らし出される、簡素な祭壇がある。
 
 綺麗だなぁ。
 
 日頃の彼なら、まず思いつきもしない感想を、デューは抱いた。
 あるいは無意識の内に、簡素だが手入れのいい祭壇の前に、亜麻色に照り返す金の髪と、白磁の肌をした修道女の姿を重ねたのかもしれない。
 静謐な光景を見る内に、デューの心に、懐かしい気持ちが沸いた。
 彼は、教会には元々縁が薄い。彼の生に神が恵みを授けてくれたとは思わないし、感謝することもなければ、後にも先にも、救いを求めたこともない。
 ―――ただ、一つのことを除いては。



 特に今日という日に限って、たった一つのことだけは感謝してもいいよ。
 生きている間の内のほんの僅かな時間、この上なく温かな時を過ごせたことだけは。





「―――どうかされましたか?」
 側にいた神父に不意に声をかけられて、デューは自分の意識を引き戻した。
「‥‥‥いいえ、別に。さて、と。」
 立ち止まり、不思議そうな顔をしている神父の前を横切り、デューは扉の前にたった。取っ手に手をかける前に、体ごと振り返って、神父に軽く頭を下げる。
「それじゃ、失礼します。‥‥‥そのうち、また御挨拶に来ます。」
「お待ちしていますよ。どうぞ、お気をつけて。」
 穏やかな笑みをたたえて別れの挨拶をする神父に、デューも笑顔を返した。
「ありがとう。‥‥‥」
 取っ手に手をかけ、ドアを開きかけて、何か思いついたようにその手をとめる。

「‥‥‥あ、そうだ。」
 彼の様子に、神父が首を傾げる。
 少し照れくさいような気分で、軽く頭を掻きながら、デューは神父に訊ねた。



「神父様。‥‥‥あの二人、幸せそうでした?」
 言ってから、頬を掻く。彼の問いに、神父はまた穏やかに笑って、静かに答えた。
「‥‥‥ええ。とても。」

 答えを聞いたデューは、更に問いを重ねる。
「エーディンさん、笑っていた?」
 神父は、少し考え込んだ。
「‥‥そうですね‥‥‥」
 宙を彷徨わせていた視線を、デューが手にした花に留めて、再び穏やかに微笑む。
 くすりと笑って、神父は彼に言った。



「‥‥‥ええ。それはもう。まるで、白い花が咲いたように―――」





END.


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