着いたばかりの彼は、目の前で、役人らしき男が、貧しい身なりの老婆にすがられ、それを振払うように突き飛ばす所に出くわした。
 どんな事情があるにしろ、あまりの光景に、彼は役人にくってかかった。そして、それが気にいらなかったのか、役人は、彼に手をあげた。
 ‥‥‥結果として、彼は思わずその役人に小さな怪我を負わせることになった。この街についたばかりの彼にとって、このいざこざは面倒な事であった。一度は立ち去ったその役人が、いつ逆恨みに捕らえに来るかも知れない。

 老婆は彼に礼を言ったが、彼の旅人の装束をみて、すぐにこの地を立ち去った方がいいと言った。彼は、何故老婆が役人などに訴えていたのかも訊ねるのを忘れ、何故「この街」ではなく、「この地」を去れと言ったのかを問いただした。
 老婆は悲し気な顔で、彼に言い聞かせた。ここは、もうまっとうな旅人なら決して近寄らない土地であるから、と。
 治安は悪く、街には活気がなく、女子供は出歩く事も出来ず、人の顔には生気がない。自分も盗賊に家財を荒らされ、食うにも困る暮らしで、そのために税が払えず、役人に期日を伸ばす様頼んでいたのだ―――そう、老婆は語った。彼は、誰も身寄りはいないのかと訊ねたが、老婆は頭を振った。そして、「居たとしても、どこの家も大差はない、役人は守ってはくれないのだから、自分の身は自分で守らなくてはいけない」。他人に構っていられる余裕は無いのだ、そう彼に教えた。だから、早くこの土地を離れて、もっと別の国へ行くがいいと。
 彼は、では何故あなたはこの地にとどまっていたのか、と訪ねた。老婆の答えはこうだった―――それでも、私達にはここが故郷で、他の場所では生きていけないのだ―――と。

 土地の悲惨なありさまを目の当たりにして、彼は愕然とした。これが、己の求めた場所であったのか。暮らす者に何一つ与えられるものがなく、何一つ希望の見出せない、これが故郷と信じて戻った場所なのか。‥‥‥彼は老婆になけなしの所持金を分け与えてから、何一つ、自分自身の事を思い出せそうにないまま、失意のうちに、その地を離れようと決めた。

 だが、いざ離れようとすると、奇妙な懐旧の情に、彼は包まれた。果たして、本当にこの地を捨ててしまっていいのだろうか。変わり果ててしまったのかもしれない。だが、本当にここを離れてしまっていいのだろうか、と。
 この国の有り様を知った時に感じたのは、その悲惨さを嘆く心だけなのか。ならば、何故こんなにも自分はやりきれない思いにかられる。何故、こんなにも大きな憤りが脳裏を過る?ここを離れてしまって、本当にいいのかと、そう思う度、彼をここにつなぎ止めようとする様に、痛みが走った。
 自分は何をしようと生き延びたのだろう。一体、何の為に、誰の為に、必死の思いで死地から還ってきたのだろうか。
 この地を離れてしまって、後に悔いる事にはならないのか―――

 ―――だが、結局、彼は何一つ思い出せないその罪悪感に急き立てられるかの様に、その地を後にした。
 逃げるように。いつまでも消えない痛みを抱えた、そのままで。


「‥‥‥それから‥‥‥俺は行くあてを無くした。自分が何故ここにいるかもわからないまま、彷徨った。自分が逃げ出したはずの土地から、離れようとし、あるいは引き寄せられるように近付き、それをくり返した。‥‥‥何故こんな有り様になってまで生きたいと思ったのかわからなかった。だが、それでも俺は生き続けるしかなかった。」

 全てを諦めてしまえば、新たな人生を送れたのかもしれない。だが、甦らない記憶は、それでも彼に、「何か」を求めていた。「誰か」の声が、生きて、諦めてはいけない「何か」をする事を、彼に求め続けた。

 戦のただ中で、あてのない暮らしを続けながら、それでもいつしか「ヴェルダン」と言う名のその土地から逃げる様に、少しずつ、彼は北へ向かっていった。荒れ果てた各地を目にしながら、それを哀れと思う事はあっても、「ヴェルダン」の荒廃ぶりを目にしたその時の様な「痛み」は感じなかった。それが何故かを知りたくて、彼は幾度となく、記憶の断片でも探り当てようとした。
 思い出そうとする度浮かぶのは、暗い色をした炎ばかり。けれど、その意識の中に、「誰か」の声が聞こえるのだった。忘れてはいけないその「誰か」の声は、何を語りかけるのかもわからないのに、ひどく優しい響き、それだけが感じられるのだった。ただ、それが「誰」なのか、「何を」語りかけるのか、それがわからなかった。
 そのうちに、彼は、一体自分がどのくらいの時間そうして過ごしていたのか、それさえも数える事が出来なくなっていった。


「全てを忘れてしまったのがいつ頃か、正確にはわからないというのは、そのせいだ。‥‥‥「バーハラの戦」なら、二十年程前の話の筈だ‥‥‥だから、さっきはああ言った。」

 ‥‥‥時は流れ、世の中は移り変わった。彼があてもなく彷徨っている間に、グランベルでは政権が代わり、各地で起こっていた戦が静まって、人々は安らぎを取り戻しつつあった。悪政は止められ、人々が活気を取り戻してくるうちに、旅人達の多くも、移動がしやすくなった。‥‥‥彼も、これを機に、一度、「あの土地」からとことん離れてみようと思った。
 あの地を捨ててしまっていいのか。何故、時折、すぐにでも戻りたくなるのか。
 暗い炎の記憶の中で、呼び続けるのは誰の声なのか。一体、自分は何をしようとして、今まで生き続けていたのか‥‥‥。
 彼は、一度離れて、自分がどうするつもりなのかを見定めようと考えたのだった。


「‥‥‥イザークへ来たのは、そう昔の話でもない。それから、流れるうちに、ここへ辿り着いた。‥‥‥目的があって来た訳じゃない。宗派も知らないから、俺は違うのだろう。‥‥‥だが、この院をみたとき、以前、どこかで同じ光を見た事がある様な気がした。白い、優しい光を‥‥‥‥。」



 ―――長い語りの後、男はそう言って、話を締めくくった。彼が神父の様子を見ようと顔をあげると、神父は、何か信じがたいものを見るような顔で、彼を眺めていた。
 先程と同じ様に、神父は、何か言いたそうに、口を開きかけた。だが、未だに何も思い出せない彼が、何を答える事ができるだろうか。長い沈黙の後、神父は大きく息をついて―――努めて表情を和らげようとしているらしい―――彼に言った。
「‥‥‥話は、わかりました。これは、神の恵みなのでしょうか‥‥‥。いえ、ここには‥‥‥かつて、騎士シグルドと共に旅をして、バーハラの惨劇を免れた修道女がいるのです。‥‥‥彼女なら、もしかして―――万が一、ですが―――あなたの事を、少しでも知っているかもしれません。ここへ、来てもらいましょう。」
 そういって、神父は席を外した。

 ‥‥‥一刻程経って、再び部屋の扉が開いたとき、美しい金の髪の修道女が、扉の前で、呆然と彼の方を見ていた。


 

 何故か、驚いたのは、彼も同じであった。金の髪。白い肌。それは昔よりはその艶や輝きを失っていたかもしれないが、自分は確かにこの修道女を知っている―――彼がそこまで考えるより前に、修道女は彼に駆け寄り、その身にすがった。
 突然の事に、彼は、戸惑った様に、扉の前にやってきていた先程の神父に目をやった。神父は無言のまま、何かを訴えるような視線を彼に送っている。
 彼は再び、自分の胸にすがって、泣きながら、何ごとかの呼び掛けを繰り返す婦人の姿を見た。
 
 ‥‥‥自分は確かにこの女を知っている。彼女が繰り返す名前は、おそらく自分の名なのだろうが、今はそんな事はどうでも良かった。
 この修道女の事を思い出したい。彼は必死で自分の記憶を探った。あの「暗い炎」が浮かぶのも承知で、自身の事を思い出そうとした。

 辺り一面の炎。彼は、何かしなくてはいけなかった。何処かへいかなくてはならなかった。「誰か」の声が、あの炎の中で、必死に彼を呼んでいた‥‥‥‥

 ‥‥‥自分を呼ぶ、澄んだ、優しい声。その声は、いつでも彼を導いてくれたものだった。いつも彼の道標になった、柔らかな、白い光。
 不意に。脳裏に浮かんでいた炎が薄れ、呼び声がはっきりと聞こえてきた。
 自分を呼ぶ、優しい声。それが、今も耳に飛び込む、澄んだ声に重なった。


 ‥‥‥ああ、そうか。
 どこよりも先に、俺はここへ来なければいけなかったんだ。

 道を見失い 暗闇の中を彷徨いながら
 白い 優しい光に導かれ
 俺は何度でも 君の元へ帰り着く‥‥‥




 ―――自分が何者なのか。何をしなくてはいけなかったのか。何処へ行かなくてはならなかったのか‥‥‥それを、彼はわかった様な気がした。
 全ての記憶が、はっきりと甦った訳ではない。だが、今は何を思い出したかを吟味するより先に、目の前の修道女に何か言ってやりたかった。彼はもう一度考え込み、必死でその言葉を探した。

 その言葉は、思った以上にあっさりと、彼の心から生まれ出た。


 彼は、婦人を抱き締めると、静かに言った。

「‥‥‥遅くなって、すまなかった。‥‥‥エ−ディン。」


 
 
 

Epilogue.



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