‥‥‥その日、神父は、死者に手向ける花を街へ買いに出ていた。
 彼が修道院に帰り着いた時、門の前に、一つの人影があるのが見えた。


 神父は怪訝に思った。一体、あの人は何をしているのだろう。
 神父は、最初、自分が留守にしていたので、あの人は入りたくとも入れないのだろうかと思った。だが、修道院には、彼以外にも人はいる。例えば、毎日、祭壇で祈りを捧げている修道女がおり、彼女はほとんど外出をしない。彼女一人という訳もないであろうし、用があるのなら、訪ねれば誰かしら応える筈であった。

 神父は、門の前に佇んでいる人物をじっくりと眺めた。
 背の高い男だ。日に焼けた肌。一見するとこの土地の者であるように見えるが、この地に多い漆黒の髪とは微妙に違う、肥沃な土の様な褐色の髪をしている。瞳は、髪色と同じ質の、澄んだ褐色。年の頃は、農夫であれば丁度働き盛り、壮年と言うのが丁度いいだろう。だが、その体つきは農夫というより、職業的に荒事に携わる、例えば傭兵や兵士と言った職種のものである方が相応しい様だ。
 いずれにせよ、外観からは男が独りで院の前に佇んでいる理由はわからなかった。

 神父は、今度は男の表情を見た。
 教会の二階の窓をじっとみつめる男の顔を、窓にあたって反射する光が照らしていた。窓に何かあるのかとも思ったが、どうもそうではないらしい。
 男は、不思議な表情をしていた。敢えて言葉で表そうとするなら、何かを探し求めている様な、そんな眼差しを院に向けているのだった。

「何か、御用ですか?」
 神父は、ゆっくり近寄って、男に声をかけた。
 神父の問いかけに、男は振り向いて、答えようとした様だった。だが、迷うような顔で視線を逸らすと、やがて言いにくそうに、低い声でぽつりと答えた。
「‥‥‥わからない。」

 男の答えに、神父は眉をひそめた。彼の言う意味がわからず、神父は問い返した。
「わからない、というと?」
「‥‥‥長い旅の果てに、ここへ辿り着いた。自分が何処から来て、何処へ向かうのか、俺は知らない。‥‥‥今、この修道院の前を通りかかって、何か、わかりそうな気がした。だが、一体何を知ろうと立ち止まったのか、それすら俺にはわからない。」
 そんな長い、奇妙な言葉の後、男は黙り込んだ。
 彼は、気がふれているのだろうか。神父は一瞬そう思ったが、それにしては口調はしっかりしているし、神父の言葉に普通に反応している。神父は、言葉の意味を訊ねようとした。だが、男がまるで、何か、疼く痛みに耐えているような様子だったので、神父はまずこういった。
「とにかく、お入りなさい。‥‥‥こうして巡り会ったのも神のお導きでしょう。中で、話を聞かせてはくれませんか?」


 神父は、男を小さな部屋へと案内した。白い壁に囲まれた、小さな机と椅子が二つ置いてあるだけの、質素な部屋である。普段は、迷いを抱いてやってきた者の告白をきくための部屋だ。
 椅子にかけるよう勧め、街で花と一緒に買ってきた香茶を、男に出してやった。だが、男は椅子には座ったが、香茶には口をつけず、じっと黙り込んでいた。
 まずは、話をするきっかけが必要なのだろう。神父は向き合った椅子に自分も腰をかけると、男に問いかけてみた。
「まず、あなたの名前を教えてくれますか?」
 少しの間迷った様だったが、男は神父の問いに答えようと口を開いた。
「名は‥‥‥」
 だが、そこまでいうと、男は何故か口を閉ざした。苦笑いして、 小さく首を振る。
「‥‥‥仮の名など、この際名乗っても仕方ないな。俺に、名は無い。‥‥‥‥忘れてしまった。」
「忘れてしまった?‥‥‥自分の、記憶が無いという事ですか?」
 神父が思わず尋ね返すと、男は小さく頷いた。
「‥‥‥では、別の質問をさせて下さい。あなたが記憶を無くしたというのは、この地に来てからですか?」
 神父が訪ねると、今度は男はすぐに答えた。
「否。今から‥‥‥‥多分、もう十年以上も前だ。二十年は、経ったかどうか‥‥‥わからないな。」
 曖昧な答え方に、神父は眉をひそめた。記憶を無くしたとは大事で、気付いた時にはショックが大きかった事だろうに、この男はそれがいつの事か覚えていないというのか。
「多分、というのは‥‥‥?あなたが記憶を無くしてからここに至るまでに、どれだけの月日が経っているか、わからないのですか?」
「それは‥‥‥。‥‥‥いや。後の話にしてくれ。」
 男はそういって、首を振った。神父は怪訝に思ったが、男が話を始めようとしているようなので、ともかく、まずは聞いてみる事にした。
「十年以上前‥‥‥‥俺が気付いた時、シレジアとグランベルとの境の小さな村にある、一軒の家にいた。」




 目を覚ました時、彼はその部屋で、寝台の上に寝かされていた。身体は傷だらけ、身動きもままならず、左腕などはひどい火傷で、再び動かす事も叶わない様な有り様だった。それらに包帯やら薬やらで処置をされ、手当てをされて、休まされていたのである。

「‥‥‥杖使いや、医師にみてもらって、怪我のほとんどは完治した。だが、左腕だけは完全には治らなかった。‥‥‥今も、自在には動かないし、ほとんど力も入らない。」

 その時には既に、彼は自分の素性も、名前すらわからなくなっていた。思い出そうとしても、頭に浮かぶのは辺り一面に広がる暗い炎ばかりで、何かしなくてはならないこと、何処かにいかなくてはならない事があった様な気がするのに、それが何であったか、一向に浮かんでこないのだった。それを彼を助けた者に告げると、無理に思い出そうとしない方がいい と諌められた。

 彼を助けたのは、その家にすむ老人であった。その話によれば、彼は、グランベルからシレジア方面へと向かう街道の一つで、倒れていた所を助けられたのだという。老人は、彼を、「バーハラの戦い」で生き残り、戦火を逃れた兵士の一人だろうと考えたらしい。
 グランベルの首都バーハラで、かつてその国の騎士であったシグルドと、その率いた軍の者が、謀反の罪により討ち滅ぼされた事件の事だ。そう老人に説明されて、彼は、「シグルド」と言う名の響きに、どことなく思いの通じるものを感じた。だが、自分の名前すらわからない彼にとって、それは彼が老人の言う通り「騎士シグルドの軍」の一員だったという事を示しているだけに過ぎなかった。
 謀反人として処刑されたものの仲間を、何故助けるのか。彼が問うと、老人は、「自分は戦で息子を失ったが、シグルド公子が立ち寄った時に身寄りのない者を保護してくれたおかげで、どうにか暮らしに困らずに済んだ。だから、彼の助けになる事をするのだ」と答えた。聞けば、この村の者は、老人と同じ境遇になった者、シグルドを慕う者、そういった者がほとんどなのだという。

 老人は彼にむかって、生き残る事が出来たのだから、傷が治ったら故郷に帰るといいとすすめた。だが、彼は、故郷どころか自分の名すら知らない。老人は彼に、お前の容姿は南に住む民族のものに似ているから、まずはヴェルダンへ行ってみてはどうか、そう言った。


 ‥‥‥‥彼の話を聞いていた神父は、やがて奇妙な目つきで目の前の男を見始めた。怪訝に思って彼が話を途絶えると、神父は、何か言いたげに口を開いた。だが、何も言わず、すぐに口を閉じると、小さく首を振って、再び彼の方を見て、言った。
「‥‥‥失礼。続きを、聞かせて下さい。」


 彼は、ヴェルダンへ向かう事に決めた。国の名を聞いた時、わずかだが、懐かしい響きがあった様に思えたのだった。
 彼は、傷が癒えてから、旅立ちの支度を整えるため、働き、資金を集め始めた。左腕が思うままにならない彼にとって、充分な稼ぎを得るのは並み大抵の事ではなかった。貯えを増やし、老人に世話になった借りを返しながら、彼は何年もかけて、少しずつ、準備を進めていった。
 
 ‥‥‥やがて、どうにか出立できるだけの準備が整うと、彼は老人に別れを告げ、南へと向かった。どの国も戦や混乱の渦中にあったから、それは遅々として、なかなか進まなかった。その間にも、彼は自分の事を思い出そうと必死であった。
 何か、大切な事を忘れているのではないかと。果たして、目的の場所へ辿り着いたら、その片鱗でもみつかるのだろうかと。そればかりを考えて、彼は旅を続けた。何もわからないのは、ひどく不安定な事だった。何をしたいのか、何を求めて生きていたのか、それがわからないのは、自分は何故生きているのか、それすらもわからなくなる程に、不安定な事だった。
 あの炎の光景は、老人に告げられた「バーハラの戦」での事なのか。そうなのだとしたら、自分は一体何の為に、必死でそこから脱したのか。一体、何をしようとしたのか‥‥‥

 それだけでも充分に長い旅をして、やっとの事で、彼は「ヴェルダン」に辿り着いた。アグストリアやグランベルとの国境、エバンスに入ると、そこには無惨な事実が彼を待っていた。


 
 
 

Continued on Page 3.



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