37.色褪せた光 


 ‥‥‥暗闇に棲む生き物は、やがて光を失い、その目に何物も見えなくなると言う。
 明けぬ夜を長く彷徨うこの身も、いつしか、目に世界は色を失って映る様になった。

 鮮やかだった記憶。
 深く澄んだ褐色の瞳。青玉の光の様な、藍青の花。
 何よりも美しく思っていた、森の新緑でさえ‥‥‥。


 何もかもが今は色褪せて見える。
 あの瞳の色を、もう思い出す事も出来ない。
 夜明けを失ったこの目には、色は映らないから。


 ‥‥‥それは、遠い約束。
 薄れていく、優しく、悲しい記憶。


 薄らと、窓から白い光が射し込んでくる。弱々しい日光を、窓を見上げたザハは眩しそうな顔で受け止めた。
 本来ならば荘厳と呼べる雰囲気に包まれている筈の謁見の間には、今は活気もなく、人の気配も薄い。細い光に照らし出された城内は、全てがその白い色で覆われているかの様な、奇妙に色褪せた印象を彼に与えた。
 その活気の少なさには不似合いなほど広い部屋の中を見回し、やがて一点に目を止める。
 空虚な玉座。


 王都ヴェルダン。そこは、王室が崩壊して以来、もはや王城としての見る影を失っていた。
 華やかさに欠けてはいても、かつては確かに保っていた威厳や強さ、そう言った活力の元となるものを、全て無くしてしまった様に見える。名ばかりの姿に望みを失った旧臣達の多くが城を去り、残る者は僅かである。そして、残った者は、行く当てもなく、ただ賊にそこを踏み荒らされるのを受け入れる事の出来なかった為だけに留まる兵士達と共に、ただ無為な時を過ごしていた。
 
 この城にザハが残った事に、国を建て直す一縷の望みをかける者もいた。かつて彼の主だった男にかけた信頼を、彼に受け継ごうとしているのだろうか。だがザハには、無駄な期待としか思えなかった。
 自分に一体何をしろと言うのだろうか。
 道標を失って、ただその幻影にすがっているだけの男に、彼等は何を求めているのだろう?


 空の王座を見て、ザハは眉を顰めた。
 ‥‥‥また、視力が落ちただろうか。


 ここ数年にかけて、ザハの視力は少しずつ落ちていた。
 単に「歳のせい」と片付けるにはまだ大分早い時期から、既にこの兆しは見えていた。ただ、もう二十年近くも前から、目に映る周囲の景色に対する彼の興味も感心もすっかり薄れてしまっていたから、生活に支障を来さないのであれば、別段気に止めずにもいたのだった。

 視力を落とした理由に関しては、医師から注意を受けていた。役目の為に休息が足りず、身体を酷使した事が、視力低下という形でその一端となって表れたのだろう、という。だとすると、事は目だけに留まらず、ザハが気付かぬだけで、他に各所に不都合が起きている可能性が多々ある。

 ‥‥‥だが、そんな事も、彼にとってはどうでもいい事の様であった。実際に目が悪くなった訳では無かったとしても、今の彼の目に、鮮やかに映るものなど何一つ無いのであった。

 もともと、ヴェルダンの民は狩猟をするせいか、大抵の者はひどく目がいい。だが、両親ともに生粋のヴェルダン人であり、どちらも髪と瞳、それに肌に濃い色素をもっていたはずなのに、生まれた時から、ザハの瞳も髪も、らしからぬくすんだ青灰色であった。
 その事があるからといって、特に大きな病気をした訳ではない。だが、元々彼の視力も、周囲の友人達程には高くなかった。一通りの事はこなすことの出来たザハが、仲間内で唯一抜きん出る事のできなかったものといえば、目の良さも影響した「狩猟」であった。
 生まれついて色素の薄い彼の青灰色の瞳は、視力の高さやつくりの頑健さにおいて、周囲の者と比べ、多少華奢な所があるようであった。強靱さを欠くザハの目に、今、彼の身体を蝕む疲労はまっ先に痛手を与えたのかもしれない。


 ‥‥‥そういえば、俺はこの髪と瞳のせいでここへ来たんだ。

 彼は、ふと、かつて幼い自分を引き取りに来た、ひと組の若夫妻の事を考えた。

 彼が幼い頃、流行り病で両親を亡くした時、周囲の者は彼を憐れみはしても、誰一人進んで引き取ろうとするものはいなかった。彼の珍しい容姿には、奇妙な話がつきまとった。精霊の落とし子と呼ばれ、病で死んだ筈の両親については埒もない噂に尾ひれがついて広まり、いつしか、そんな奇妙な話のつきまとう彼を、皆が遠ざける様になったのだった。
 そんなザハを不憫に思ったのか、王宮付きの文官であった彼の父を悼みに訪れたある若夫婦が、彼を引き取ると言い出したのだった。

 申し出たのは、当時のヴェルダンの王太子であった。その妃には既にザハより二つ下の、幼い息子がおり、それこそ様々な理由から、ザハを引き取る事に関しては周囲が随分止めたのだ‥‥‥とは、彼が大分後になって聞いた話であった。
 引き取り主になろうというその男は、周囲の言葉など気にした様子はないようだった。この位の歳の子どもであれば自分の息子の遊び相手にも丁度良い、子ども一人引き取った所で別に問題は起きない、そう言って、止めようとする者の言葉も、幼い少年につきまとった奇妙な噂も、その男はあっさりと振り切ったのだった。
 彼に引き取られなければ、自分はどうなっていただろうか。そんな事を、ザハは考えたくもなかった。成長するにつれ、下働きの様に使われる事もあったが、それは周りが彼の身分を混同する事のない様にした結果なのは明らかであったから、不満など、抱くはずもなかった。彼は才覚を認められ、学問もさせてもらった。
 何より、彼が、兄弟同然に育った夫妻の息子と過ごした時間、それは、家族をなくし、奇妙な話が人を遠ざけてしまうザハにとって、家族と友人との両方を得た貴重な時だった。彼は夫妻を実の親の様に、そして自分の主人の様に思い、彼等を心から慕った。
 夫妻があまりにも早過ぎる死を迎えた時、信じられぬという思いを抱くと共に、ザハはひどく悲しんだ。そして、実の弟の様に思っていた彼等の息子が父の地位と意志とを継ぐと知ったとき、ザハは、亡き養い親と、そして少年自身の為に、自分の生涯を、彼に仕える為に捧げるのだと決めたのだった‥‥‥。


「‥‥‥。」
 ザハは天を仰いだ。
 亡き二人が今の自分を見たらどうおもうだろう。そう思うと、やりきれない思いが溢れるのだった。
 忘れ形見の少年は、無惨なやりかたでその存在を奪われてしまった。それを止める事ができなかったのだという思いが、彼のやりきれなさを一層大きなものにした。
 彼は主を失った事で、他にも、あまりにも多くのものを失った。弟の様な存在を。近しい友を。主人を。‥‥‥そして、自身が将来にかけていた夢すら、そのたった一つを失っただけで壊されてしまった。恩人に与えられた生が、今では無為に時を過ごすばかりのものになってしまっている。そのことも、ザハには悔やまれて仕方がない。
 彼がその生を捧げようとした全ては失われてしまった。その空虚さに耐えられずにいるうちに、自身が精神の安定をすり減らしてしまったのも、彼は知っていた。
 狂わずにいられるのは、諦めてしまったためか。あるいは、すでに、どこかおかしくなっているのかもしれない。抜け殻の様になってしまった自身の身体の健康に執着がなくなったのは、あるいはそのせいかもしれなかった。


 やがて、彼は溜め息をついた。
 休息が必要だと言われた所で、どうにもならない事はわかっていた。荒れた国内を取り仕切るのに追われ、次から次へと現れる賊に煩わされ、報われる事もなく役を負っていれば、満足な休養など、どれほど時間があっても得られる筈がなかった。
 そんな事を思いながら、ザハはふと、自分の家の事を考えた。


 ‥‥‥‥随分と長い事、妻と子を放ったままだ。

 20年程前に、一つの動乱が起きてから後、彼の主が旅立ってからというもの、ザハはそれまでの暮らしを捨てて、城に居つづけなければならなくなった。何度、家族の身を案じた事か。
 どうしてもと言う時に、何もかも忘れて身体を休める家があれば、安心出来る気がしたし、それ以前に、無茶をなんとも思わない己の気質を知っている彼は、自分の得た家族に心配をかける様な事はしたくなかった。仕えるべき主人が居ない今となっては、何の意味もない事だが。
 最愛の者をかえりみてやれないというのは辛い事だ。ザハには自分のしたい事をすればいい、そう言って、彼の妻は遅くに生まれた娘とともに、今でも家で夫がときおり戻るってくるのを待っている。
 心配をかけまいと気丈な態度を保ってはいたが、寂しい思いをしているに違いない。以前まではしばしば彼女の元に帰っていた。が、身の安全を計り、家を移してからというもの、今は年に一度会ってやれれば良い方だ。

 この城を出て、さっさと家に帰ればいい。
 ‥‥‥それは幾度となく考えた事だった。治安が乱れに乱れた今のヴェルダンで、女子供を家に残しておくなど、他人には考えられない事だろう。
 もう、彼が待つべき主は戻る事がない。なら、家族の元へと帰るべきではないか。既に夢は消えさり、望んだ未来も訪れはしない。‥‥‥なら、待つ者の元へ戻ってやればいいではないだろうか。
 一体、自分はこの城で、何を待っているのだろう。
 立ち去ろうとするその度に、消えた男の言葉が、脳裏にゆらめいては消えていく。

『後は頼む』

 もはや呪縛の様につきまとうだけの記憶の残骸から、それでもザハは逃れる術をしらなかった。

 幼くして親を失くしたザハに、それと変わらぬ安らぎを与えた者がいた。その若夫妻とはほんの数年、共に過ごしたに過ぎなかったが、彼には十分過ぎる時間だった。
 何不自由ない暮らしと、温かさを与えられた。男とその妻は、持っていた能力を活かすだけの教育を受けさせ、望む未来を歩める様にしてくれた。彼等の子供であった、一本気で、どこか危なっかしい所のある少年は、放っておけない以上に、彼の望みをかけるに充分な青年になった。

 ザハは彼等の為にこそ生きたいと願った。
 だが、結局彼は道標を失った。今ではもはや錆びた鎖でしかない、それでも消えない言葉が、ザハを今も、無為にこの城に留まらせている。


 一体、ここで何を望むのだろう。

 乱れた国を建て直す事も出来ず、だからと言ってそれを見捨てて去る事も許されない。自分で、許す事が出来ない。
 なら、一体どうするべきなのだろう。
 自分の存在する意味すら、今の彼にはわからなかった。

 如何なる名弓だろうと、狩人の手中からこぼれ落ちてしまえば、ただの「物」。
 かつてキラーボウと呼ばれたその弓が、主人を失った様に。
 狩人は消え、自分はただそこに在るばかりなのだろうか‥‥‥




 扉が勢いよく開かれた。
 駆け込んできた兵士の非礼を咎める者がいていいはずだが、活気というものを失った城内に、その声は聞かれなかった。

「‥‥‥どうした?また、どこかの馬鹿共が攻めてでも来たか?」
 ザハは視線を移し、苛立たしそうに、しかし静かに尋ねた。

 形だけとはいえ、いまだヴェルダン城は『王城』だった。王室の者を全て失った今、おそらくそこを制した者が、最もその力を知らしめる事が出来る。‥‥‥そう、考える者は多かった。
 幾つもの勢力が均衡する中では、「名目」も武器だった。仕える主人が不在な今、ザハ達も勢力の一派に過ぎない。否、残党とでも言うべきか。城に残る彼等は、野心家の賊達にとって邪魔者だ、と言う訳だろう。

「‥‥‥何度やられても懲りないときた。学習能力がないと言うか、無能と言うか‥‥‥城を攻めるのが如何に難しい事か、その程度の事も知らないものか。」
 幾度となくそれらの賊を追い散らしながら、その度にザハは悪態をついた。国中が見る影もなく荒廃してしまった、その事を思い知らされる様で、尚一層気分が悪くなる。

 かつて持っていた筈の陽気さも快活さも、主を失うと同時に、この青年から全て消えてしまった様であった。彼が争乱を起こした者達にとった対応は、彼を知る者でさえ怯まずにはいられない程冷酷なものだった。

 形ばかりの主義主張など、聞く気は無い。
 彼は、その類の報告を聞けば、必ずこう言った。
 一言、『潰せ』、と。

 ‥‥‥分不相応な、盗賊まがいの野心家達の為に、どれほどの害が広がっているか。
 日夜飛び込んでくる村人の訴えの調査、しばしば起こる騒ぎの中で家の主人を殺された者達の救済、そういった事を求める声が、しばしば本城へ直に伝えられるようになっていた。気力をなくした各地の役人達では対処しきれないのだ。必需品などを供給してやっても、再び賊が荒らす、その繰り返しであった。
 そうかといって、治安の悪い国内を、最奥部にある首都まで旅をして無事に済む事など奇蹟に等しい。危険を冒して助けを求めてやってきた彼等が、ザハ達の元までたどり着ける事はほとんどなかった。稀に傭兵等を護衛にしてやってくる者もいるが、わざわざヴェルダン城まで旅をしてまで保護を求めなくてはならない程困窮するのは、ほとんどがそういった財力の持てない貧しい民だ。彼等の大方は、たどり着けずに野盗に殺されるか、あるいはのたれ死ぬかどちらかである。
 それでも、救いを求める人々の声は絶える事がなく、ザハ達はそのほとんどを救う事が出来ない。


「‥‥‥。」
 思いをめぐらすうちに焦躁感が募り、ザハは小さく頭を振った。

 今、この城には何も無い。しかし、それでも野盗と大差の無い賊などを城に上がらせる気は、ザハにはなかった。
 この城をまでも荒らす事など許さない。

 

「いえ、賊ではないのです。それが―――」
 何か不審な者でも見たか、あるいは何か信じられないもの―――奇跡でも見たかの様な、不思議な表情を、何かの報告に来た兵士はしていた。
 思わず、怪訝な顔でその姿を見やる。

「どうした。‥‥‥何があった?」
「‥‥‥ジャムカ様の‥‥‥」
 兵士は、言いかけた言葉を一瞬躊躇ってから、再び口にした。

「ジャムカ様の息子だと名乗る男が、傭兵隊を連れて―――ザハ様に、会わせろと。」
「‥‥‥‥何だと?」


 奴の―――息子?
 ザハは怪訝そうに、眉を顰めた。
 随分と、珍しい来客もあるものだ。確かに、あの男には二人の子供がいた筈だ。先に生まれた方については、名も知っている。
 ザハはかつて主人からの手紙で知らされた事を、なんとなく思い出した。‥‥‥成長した筈の子供、解放軍にそれらしき人物が参戦していたとも聞いている。
 考えてみれば、イザークから始まったというその戦の為に、近頃グランベルでは、政権が大きく交代したばかりだと言う。だとすれば、今それのうちの一人がやってきたのだとしても別に不思議はなかった。

 だが、それもどちらでもいい―――もう、あの男自身は、帰る事はない。
 彼等は何をしに来たのだろう。たとえ政権が変わろうと、どうせ「属国」でしかないこの地に、わざわざ足を踏み入れて。

 新手の懐柔策か?
 ‥‥‥何を、今更。
 
 どうでもいい。


 ザハは兵士に命じた。
「‥‥‥会おう。本人と、何人か共の者だけ入城させてやれ。傭兵は入れるなよ。‥‥‥ネズミが紛れ込むと面倒だ。」

 空虚な玉座を見つめた、その時と全く同じ表情で、ザハは来訪者の入ってくるのを待った。


「お初にお目にかかります。私の名はレスター。父はヴェルダン王国王太子ジャムカ、母は元ユングヴィ第二公女エーディン。‥‥‥信じていただければ、の話ではありますが。」
 そう言って、やってきた青年は一礼した。

 背は、高めだろう。深い藍青の髪に、澄んだ褐色の瞳。
 レスターの顔立は、父と名指したその男よりは、母親に似たものの様に思えた。しかし、僅かながら、らしからぬ精悍さも伺えるのは、彼自身が生い立ちを知るが故であろうか。澄んだ褐色の瞳とその顔つきは、確かにかつてザハが主と認めた青年のものを思い起こさせた。

 手とその背に全く対照的な二つの弓を持ち、手にしているのは暗い褐色の、冷たい弓だ。
 ザハはそれらに、確かに軽い既視感を感じた。否、青年の持っている弓を、彼は忘れた事などはない。正確には、その弓が哀れな残骸となってこの地に戻ってきたその光景を、だ。

 傍らには、輝く様な金の髪を持った、まだ少々幼い顔立の―――あるいは、まだ少女と呼んでも差し支えないのかもしれない。明るい日の光を思わせる様な娘が連れ添っていた。
 娘を見て、かつてこの国にやってきた、一人のプリーストの姿をザハは思い出した。彼の主と連れ添う事になった、一人の女性の姿。
 親戚なのかもしれない。印象は違うものの、顔立はよく似通っていた。

 後ろに、剣士の青年がもう一人。レスターと、同じ程の年齢だろうか。
 こちらも背は、高い。漆黒の髪と、深い色合いの青い瞳を持っていた。
 青い瞳。
 だが、その青は、レスターの藍青の髪とは違っていた。人によるだろうが、ザハの目には、レスターの髪の藍青の方が印象的に映った。
 確かに、あの男の好みそうな色だな―――と、そう思ったせいかもしれない。

 ‥‥‥だが、なんで奴はあの色が好きだったんだっけな。

 どうしてだろうか、肝心のその理由を、彼は忘れてしまっていた。とりあえず思い出そうとはしてみたものの、薄れていた記憶からその藍青色を引き出すには、もっと時間が必要になりそうだった。


「‥‥‥聞けば、精霊の森を抜けて来られたと言う。あの地に巣食う賊共を一掃なさった、とも。‥‥‥大したものだ。あの者達に煩わされていた立場として、御礼申し上げる。」
 どことなく面倒な様子で、ザハは冷たい口調で言った。

 ‥‥‥どうでもいい。
 何が似ていたとしても、この青年は「彼」ではない。


「‥‥‥信じて頂ければ、とおっしゃる。では、一体何を証に立てて頂けるのか?」
 ザハは問いかけた。レスターに、告げた両親が本物である事を示せ、と言うのだった。
 周囲で見守るものは、無言だった。だが、この事を問いただしたりしなくとも、誰も咎めたりはしなかったかもしれない。
 誰もが、目の前の青年が偽りなど口にしていない事はわかっていた。彼の持つ空気がそれを語る。
 事実であっても、どうという事もないせいもある。いずれにせよ、彼等はこの地を知らない人間であった。
 偽っても、彼等に何の利益も無い。それだけは、間違いがなかった。


「‥‥‥証拠はありません。強いて言えば、父の残したこの弓‥‥‥御存じでしょうが、この国の王の紋があります。そしてはっきりしているのはユングヴィの血を引いている事。私自身、父の記憶は曖昧ですから‥‥‥それだけです。」
 手にした弓を柄を眺めながら、周囲の視線に怯む事なく、レスターは言った。

「‥‥‥‥。」
 ザハは無言で、その様子を眺めた。
 あの弓を持ち出すとはな。そう思った時、彼の中に、軽い苛立ちが走った。
 
 別に、ザハは事実を確かめたかった訳ではなかった。だが、目の前の青年は、たとえザハ達が最初から疑ってかかったとしても、その言葉を認めさせたに違いない。レスター達の姿は、生気のない城内で、そこだけが鮮やかだった。
 ザハの目に映るのは、もはや色褪せてしまった記憶すら鮮明に蘇らせつつある、澄んだ褐色の瞳。

 あんな目をした男を 俺は一人しか知らない。


「『決定的なものは無い』‥‥‥か。」
 ザハは無感動に呟いた。


 
 
 

Continued.



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