36.鏡 


 冷たい死の匂いのする弓。
 染み込んだ血の乾いた様な 暗い褐色の弓。

 ‥‥‥誰もが厭った筈のその弓は、内に秘めていた様なほんの少しの温もりを与えてくれながら、手によく馴染んだ。


 光り輝く湖面が、目の前に広がっていた。

 レスターは、その国の通り名に冠され、称えられている湖を目の当たりにしていた。
 鮮やかな新緑と、澄明な空気に満ちた青空。空を行く小鳥も木々の間をこぼれ落ちる陽光も、全てを映している澄み切った水を、その体全てに称えて横たわる巨大な湖。

 ヴェルダン王国。
 森と、湖の国。

 この土地がそう呼ばれる訳が、分かった気がした。


 レスターは湖を覗き込んだ。新緑と木漏れ陽を背に、無表情に自分を見つめる褐色の瞳の青年の顔が見えた。
「‥‥‥‥。」
 景色は美しく、空気は澄んでいて、鼻をくすぐる草木の匂いが心地よい。なのに、どうして自分がこんな顔しか出来ないのか、レスターには不思議なくらいだった。

 湖面に見える褐色の瞳に問いかけられた様な気がした。
 「後悔はしないのか」と。


『これは、あなたのお父様の誓いの証。けれど、この弓を引くか否か、それはあなたの望む様に。あなたの行く道は、まだ自由なのだから。‥‥‥自分でお選びなさい。』

 

「‥‥‥‥。」
 レスターは、顔を上げた。視線を定める先も見つからず、自然と、手の中の弓へと目と意識が向く。
 暗い褐色。機能性を重視し、良質の木材に動物の皮や腱など、思い付く限りの材料で徹底的に威力強化と軽量化を施され、実用化された狩人の弓。
 それは戦場においては、紛れも無く凶弓となるものであった。そして、そこから撃ち出されるのは、一矢で人一人を死に至らしめる魔弾。

 『魔弾の射手』。
 死の弓使い。

 レスターは溜め息をついた。


 

 レスターが携えてきたのは、戦場に出る様になってから母に託された、かつて父が手していた二つの弓だった。今まで、レスターが実戦で手にしていたのは、勇者の弓である。手にしている暗褐色の弓―――キラーボウは、これまでのほとんどの戦いで、それを使った事はない。使えるはずもない、その弓は、つい最近まで弦すら張られていなかったのだ。彼は自分で、その弓の弦を張り直した。
 二つを与えた母の言葉は、それぞれ全く異なっていた。

 勇者の弓。それを手にする以上、絶対に己の信念を曲げてはならない―――そんな風な言葉を聞かされた様な気がする。名誉ある弓使いの誇りなのだ、と。
 そして、その戒めについては、少なくとも名に恥じ入る様な事はせずにいられたはずだ、とレスターは思っている。
 だが、弦の張られていない暗い色の弓を差し出した、母が口にしたのは―――


「レスター!やっと見つけた!」

 あまりにも聞き慣れた声が耳に飛び込んで来て、レスターは振り返った。見ると、先程別れたはずの少女が、息を切らしてこちらを睨んでいる。
「パティ‥‥‥」
「もう、何うろうろしてるのよ!危ないでしょ。それに歩くの早いわよ、いくら走っても追い付かないじゃない!」
 どうやら、自分も一人でやってきたという事は、彼女にとってはどうでもいい事らしい。腰に両手を当て、つかつかと歩み寄ると一気にまくしたてた。勝手に一人で歩き回るな、自分を置いて行くとは何事だ、等々‥‥‥

「でもここ、素敵ね。綺麗な湖。‥‥‥深い色、レスターの目みたい。」
 一通り言いたい事を言いおえて満足したのか、次に振り向いた時、険しい顔をしていたはずのパティの表情は一転して和らいだものになっていた。
 レスターはちらりとそれを眺めたきり、再び澄んだ湖面に視線を移した。
 褐色の瞳に木々の葉影がうつり、新緑の色に染まる。
「‥‥‥‥。」


 『自分でお選びなさい。』

 レスターの脳裏に、先程みた光景が浮かんだ。自分自身に何かを問いかける、褐色の瞳。

 後悔はしないのか。

 ‥‥‥巻き込んだとしても?
 或いは、独りになったとしても?


「‥‥‥前も言ったけど。戻ってもいいんだぞ?」
 視線を湖に向けたまま、レスターは口を開いた。その眺めていた方に同じ様に視線をやっていたパティは、眉を顰めて彼の方を向いた。
「この弓と‥‥‥。さっきの、見ただろう?俺がやろうとしてるのはああいう事だ。‥‥‥誰にも邪魔させない。自分を追いつめる事になっても、それに耐えられなければ押しつぶされる。‥‥‥でも、お前までそれに付き合う必要はないんだ。お前は、帰った方がいい。」


「‥‥‥‥。」
 眉を顰めたまま、パティはレスターの顔をじっと眺めやった。
 ‥‥‥なぜ、レスターはこんな事を言うのだろう。
 どうして自分にこんな不安そうな顔を向けるのだろう。そう思った時、パティはレスターの前にまわり込んで、正面から真直ぐに彼の目を見つめ返していた。彼が、目をそらす事が出来ない様に。
「‥‥‥まだそんな事言ってるの?何度言ったらわかるの、レスターの大馬鹿!」

「お、おい‥‥‥パティ?」
 いきなりの怒鳴り付けられ、レスターが面喰らった様に一歩後ずさる。しかし彼が後に退くのを許さないかの様に、パティは更に一歩前に踏み出した。
「一体、何を気にしてるの?ええと‥‥‥とにかく、何とかの射手だか何だか知らないけど、騎士だろうと王子様だろうとただの村人その一だろうと、レスターはレスターでしょ!」
「村人その一って‥‥‥」
「そんな事はいいの!」
 口を挟む暇も与えず、さらに喋り続ける。レスターはすっかり唖然としてしまった。

「一緒にいるって、約束したでしょ?人がなんと言おうと関係ないよ。なんて呼ばれたって、それがあなたの選んだ結果だっていうなら、全部レスターの一部よ。たとえそれでどんな姿、どんな立場になったって、あたしは側に居てあげる。‥‥‥なのに、今みたいな気弱な顔してるあんたをほったらかしにして帰るなんて、そんな危なっかしい事、あたしにできる訳ないでしょ!孤児院の子供達より手がかかるんだから!」
 ‥‥‥そう一気にまくし立てた後、真直ぐに見据えたその視線を外さないまま、パティは微笑んだ。

 木漏れ日を受けて輝く金の髪よりももっと明るい、そんな彼女の笑顔をみて、ほんの一時でもこの少女と離れる事を考えた自分を、レスターは確かに馬鹿だと思ってしまった。
 パティの身体を自分の方に引き寄せると、小柄な少女の両腕が自分の首に回された。
「すまん。‥‥‥ありがとな、パティ。」


「本当に、綺麗な所ね。」
 パティは湖と、辺りを広がる森を見やってから呟いた。
 全てを映し出す鏡の様な湖面。レスターは湖に視線を向けたまま、それに答える。
「多分、昔から変わってないんだろうな。人が争っても、国がなくなっても、そのままの姿でずっと‥‥‥。」


 もう、何年前の事になるのだろう。まだ少年であったレスターが、幼い妹を連れ、仲間達と共に野を駆け巡っていた頃の事だ。
 周りの大人達が、自分や仲間達に向ける目に、彼等は随分と早くから気付いていた。
 イザ−クでは恩人として慕われた騎士と、彼と共に戦った戦士達の血を受けた子供達。自分達を扱うそれが、しばしば奇異なものに見えたのだ。しかしその当時、彼等はまだ大人達の行動の意味を、深く理解してはいなかった。
 時折訪れる修道院で、母が語る父、そして仲間達の両親の物語りは、育て親の一人であるレヴィンが語るものには無い話も多かった。それを聴く事はレスターだけでなく、他の子供達にとっても、ひどく楽しみな事の一つだった。
 ある時、ラナが野で摘んだ花を母に渡したいというので、レスターは妹の手をとって修道院の一室へと向かった。その日は、エーディンはシャナンと共に、修道院を訪れた旅人に会い、各地の様子を聞き出している筈だった。
 応接にあたる部屋を覗くと、既に人はいなくなっていた。なら、母はきっと自室にいる筈だ。そう思って、エーディンの部屋まで、レスターはラナと二人で駆けていった。ドアの前で立ち止まり、早く行こうと急かす妹の声を受けて、ノックを忘れて小さな手で扉を開こうとした。そして、僅かな隙間から聞き慣れぬ声を聞いて、その手を止めた。
 啜り泣く様な、押し殺した声。二人が不思議そうに細い隙間から中を覗いてみると、奇妙な光景が広がっていた。

 椅子に腰を下ろし、啜り泣く母。その膝の上には、レスターの見た事のない、弦の切れた弓の様なものが抱かれていた。


『‥‥‥ねぇ、どうしたらいいの?』

 涙混じりに呟いて、エーディンはその弓を抱き締めた。レスターもラナも、いまだかつて目にした事のない母の姿に、黙ってその光景を眺めるしかなかった。
 不安そうに自分の服の裾を握りしめた妹の手の感触を、レスターは今でも思い出す事が出来た。
『あなたの宝が、壊れてしまった。‥‥‥私達の夢だったのに‥‥‥』
 
『‥‥‥あなたが居なくなって、願いは消えてしまうの?‥‥‥幻に還ってしまうの?ジャムカ‥‥‥』


 ‥‥‥後で、シャナンに聞いた話によれば。当時、内乱で荒れきっていたヴェルダンは、それこそ聞くに耐えない状態であったという。
 治安と呼べる様なものは既になく、現地の役人には気力がない。一切の王族を失った後、他国との国交はほぼ完全に断たれてしまい、僅かに駐留していたグランベルの役人達には、従う者など誰一人いない。むしろ、彼等自身が騒ぎを起こす事の方がよほど多かった。子供狩りの手も伸びていて、野盗やそれに類する無法者が公然と歩き回る中、女子供は出歩く事も出来ない。華やぎと賑わいの無くなった町には、活気はおろか、善良な人々の生気そのものがない‥‥‥。

 そして、それらの様子を語った旅人は、最後にこう告げたのだ。
『もう、あそこに国なんてありはしませんよ‥‥‥‥』


 夢は夢のまま消えてしまうの?
 結局、叶わぬ理想に過ぎないの?
 いつか二人一緒に暮らせる日が来る、今でもそう信じているのに‥‥‥




「‥‥‥母さんが父さんの事を話す時の顔、よくわからなかったな。『あんなに勝手で、心配をかける人はいない』なんて言いながら、優しい顔で、幸せそうに笑うんだ。」
 レスターはそう言って、その光景を思い出した様にくすりと笑った。

「ラナと二人で話を聞いてると、母さんをかばって死にかけたり、傷をほったらかして雪のなかに座り込んでたり、本当に無茶ばっかりでさ。‥‥‥母さんとの事だって、色々あったって聞いた。それなのに、幸せそうな笑い顔‥‥‥他じゃみなかったな。」
 「なんだかいいなぁ」と、パティが呟いた。レスターは彼女の方を見て微苦笑を洩らすと、また話を続けた。
「‥‥‥自分の事で手一杯だった筈の父さんは、それでも『私を大事に思ってくれた』んだって母さんは言った。自分にとって一番綺麗なものを捧げようとしてくれたんだって。‥‥‥今なら、少しは父さんの気持ちがわかる気がするな。」
 そういってパティの方を見て少し笑ってみせると、パティはレスターの方に嬉しそうに身を寄せた。
 やがて、少し顔を上げて、小さく首を傾げて訊ねた。

「綺麗な景色、澄んだ空気、優しい場所。叔父様がエーディン叔母様に贈りたかった、大事なもの。でも、ここにくるまで、レスターだってそれを知らなかったんでしょ? ‥‥‥なんで、レスターはこの国に来ようと思ったの?」
 レスターはパティの顔を見返した後、少し考えてから、答えた。

「‥‥‥居場所が欲しかった、から‥‥かな。自分の両親が大切にした筈の場所が、荒れ果てて、既に母さん達の思いも、俺やラナの存在も忘れられて、みんな無かった事にされてると思ったら‥‥‥なんか辛かったから。荒れ果てるばかりなのを止めたかった。父さん達がいて、俺もここにいるんだって、力の限り叫んでやりたかった。父さん達が育てた芽が、知らずに踏みつぶされる様な事にはなって欲しく無かった。‥‥‥母さんだって、まだ願い続けてるのに。」
 長い言葉を一度切って、レスターは言葉を続けた。パティは黙ったまま、じっとその様子を見守っている。

「‥‥‥誰だって、あるがままの姿でいたいだけだ。自分の望んだ姿で、自由に‥‥‥誰にも自分の誇りを傷つけられる事なく。」
 途切れる事なく、呟くように。ただ、レスターは思い付いたままを口にしていた。
「ただ、自分に執着するあまりに、自分以外の者がいる事を忘れてしまった。自分の誇るものを一番に思うあまりに、人にも触れられたくないものがあるのに、気付かなくなってしまった。亀裂は広がるばかりで、その上、一方の力に押しつぶされた者の上げた声を、もう誰も聞こうとはしなかった。‥‥‥後は、傷の痛みに荒んでいくばかりで。」
 ‥‥‥やがて、道標となる娘に逢い、たった一人その確執から抜け出す術を知った男は、運命の波に飲まれて消息を断ってしまった。 
 自分を残して。


「‥‥‥変えられるかもしれない。それなのに黙ってみているばかりなのは、嫌だから。セリスはやりとげた。他の仲間も、それぞれの望む場所に散った。‥‥‥ヴェルダンの民は、グランベルの人間を―――もちろん、ユングヴィも含めて―――嫌ってる。グランベルの人達は、ヴェルダンを蛮族の国だと思って、まともに向き合おうとしない。‥‥‥でも、どちらも俺の一部だから。どっちも誇りに思えるから‥‥‥」
 パティがその顔を見上げて、言葉を続ける。
「‥‥‥騎士だろうと王子様だろうと、それにただの村人その一だろうと、レスターはレスター。‥‥‥でしょ?」
 レスターは、小さく笑った。

「変えてみせるさ。父さんと母さんが一緒にいたのは、決して間違いじゃなかったって信じてるから。それに‥‥‥」
 そこで言葉を一旦切ると、少し照れた様に笑ってみせる。
「お前とも一緒に居たいしな。‥‥‥ここは綺麗だ。」

 その言葉に、パティは嬉しそうに笑った。


 ‥‥‥一刻程経って。

 出立の準備をすっかり整え終わってしまったスカサハは、することもなくぼんやりと、すぐ側の樹に背をあずけて立っていた。やがて聞こえてきた草を踏む音に顔を動かすと、群青の瞳のその端に、腕を組んで歩いてくる一対の男女の姿が映る。
 スカサハは大きく溜め息をついて、待ちくたびれた身体を起こした。

「全く、世話の焼ける‥‥‥いい加減待ちくたびれたよ。」


 
 
 

Continued.



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