「‥‥‥『木漏れ日』?」
まさか。
記憶の片隅、最愛の人との思い出で占められている、その中に今でも居続ける小鳥。自分がその小鳥に付けた名を、エーディンは呟いた。
見間違う筈もない。確かに、それはこの地にいる筈のない、懐かしい存在だった。
だが、あの小鳥は、懐いていたその青年と共に、バーハラの地へと消えていったのではなかったか?
信じられぬ想いで、エーディンは窓の方を見つめた。やがて、少しずつその小鳥の以前と違う様子、懐かしさ以外の雰囲気に気付き始めた。
‥‥‥瞳が、違う。
澄んだ湖の様な、褐色の瞳。
エーディンの記憶の中では漆黒であった筈の小鳥の瞳は、今は彼女の夫のものに酷似している様に思えた。
‥‥‥ジャムカ。
ふと、失った人との記憶に想いを馳せる。
もう一度窓の方、『木漏れ日』の居た辺りにエーディンが目をやった時、一瞬前まで確かにそこにいた筈の小鳥の姿は、既に消えていた。
「‥‥‥‥‥?」
一体、何処へ?
怪訝に思ったその時、小鳥の居たはずのその場所に、何かが置かれているのに気付いた。
何があるのかを知って、エーディンは思わず窓へ駆け寄った。
『木漏れ日』の消えたその代わりであるかの様に、そこにあった花を手に取る。
青玉の様な、深い青。澄明な輝きを宿した、藍青の小さな花。
それは、エーディンがこの地で探し求めた、そして、かつて愛した人がその存在を教えてくれた、名も無い小さな『幸福』の象徴‥‥‥
どうしてだろう。
何故、この花がここにあるのだろう。
咲くはずがないのに。手に入る筈がないのに。
‥‥‥そう思うより早く、大粒の涙が頬をつたい落ちていた。
『この花は、奇跡なんだとさ。』
忘れかけていた言葉が、頭の中で響く。
『存在する筈がないと、たとえ皆にそう言われても、誰にも気づかれなくても、それは確かに咲いている。まだ見ぬ幸福、いつか叶う願いの象徴だと。この森にしか咲かない、けれど、確かにそこに存在していると‥‥‥。』
『君は平気なんだな。俺の側に居ても。』
何か、不思議なものを見る様な目をしていた。私の居るのが信じられない、そんな顔で。
『君が何も出来ないなんて事は無い。どうしようもなく辛かった時、君のくれる言葉、君の存在が嬉しかった。それは、君だけの力‥‥‥。』
『私』だけを見てくれた。『私』だけを必要としてくれた。
『約束する。君が居る限り、俺はいつも君の元に戻ってくる。』
嘘をついたりはしなかった。彼はきっと、諦めたりはしなかった。
『祈っていてくれ。』
あなたの側にいたい。笑っていてほしい。その想いを、彼はきっと忘れたりはしなかった‥‥‥。
すでに枯れ果てたと思っていた涙が、今は止まらなかった。失ったはずの幸福全てが、今、小さな花となって彼女の手の中に咲いていた。
色褪せていた視界に映る鮮明な青。やがて、エーディンが気付いた事があった。
‥‥‥そう言えば。
エーディンはやって来たヴェルダンの使いの話を思い出した。
「遺体は、見つからなかった」と。
『俺はいつも君の元に戻ってくる。』
彼は、決して諦めたりはしないから。
勝手な人。
自分が迎えに来られなくても、それでも笑っていろと言うの?祈っていろと言うの?
それとも、どんなに望みが薄くても、必ず戻るから待っていろと、そう言うの?
あなたの居ない時を長く過ごすのは、どうしようもなく辛いのに。
一人にしないと約束したのに。
約束を忘れてなどいない。信じて欲しいと、そう言うの?
‥‥‥本当に、勝手な人。
無意識の内に小さな笑みが漏れたのが、自分でも信じられなかった。
可能性は限り無く低い。
それでも、エーディンはもう一度、神に祈りを捧げる事が出来る様な気がした。
どんなに待っていても来ないのかも知れない。
だが、叶わなくても構わない。信じる事が出来るのなら、それだけで、大切なものを無くさずにいられる様に思えた。
祈りは届かないのかもしれない。それでも‥‥‥
どうか、もう一度あの人に会えます様に。
イザ−クでは決して咲かないはずの花が、今は確かにエーディンの手元にある。失いかけた思い出とまだ見ぬ幸福が、その小さな奇跡を象徴するかの様に、そこに咲いている。
‥‥‥想いは尽きる事が無い。
「‥‥‥愛しているわ、あなた。」
―――いつかあなたにも、幸せが訪れます様に。
かつてエーディン自身が放った言葉。
それが、最愛の人のその声で、囁かれた様な気がした。
いつか、君ともう一度あの場所へ行きたい。
深い藍青の色をした、あの花の咲く場所に。
ささやかな夢ではあるけれど、俺にとっては何物にも代え難い願いだった。
そう言ったら、君は笑うだろうか?それとも‥‥‥
なぁ?エーディン。
『君が祈ってくれるのなら、いつか必ず、俺は君の元へ戻ってくる。』