いつか、君ともう一度あの場所へ行きたい。
深い藍青の色の、あの花の咲く場所に。
あまりにも、ささやかな夢。
それでも、俺にとっては何物にも代え難い願いだった―――
―――そう言ったら、君は笑うだろうか?それとも‥‥‥
‥‥‥なぁ?エーディン‥‥‥。
乾いた風が頬を撫でる。
‥‥‥窓を開け放したままであった事に気付いて、エーディンは小さな椅子に座ったまま、視線を動かした。色の薄い、ただただ広がるばかりの青空が外に見える。雲一つ出ていないというのに、エーディンの視界には、外の景色は奇妙に白けていて、鮮やかさもなにもかも失ってしまった様に見える。
イザ−ク、ティルナノグの修道院。そこで感じる風は、いつも乾き切っている様にエーディンには思えた。
惨劇と呼ばれたあの日から、まだ、そう長くは経っていない。
今はまだ、平和だった。バーハラで消えた、一人の騎士とその仲間―――彼等の忘れ形見である子供達が、グランベルの兵士達に追われている事を除けば。
新たな皇帝の治世は、しごく穏やかに過ぎている。皇帝となった男は、何を犠牲にしてそこにいるのか、まだ憶えているだろうか。
‥‥‥何故、ここにいるんだろう?
エーディンは視線を戻した。花瓶の一つも置いていない、質素な木製の机の上。
窓は、開け放したままだった。‥‥‥また、不用心だと怒られるかもしれない。そう思ったが、あまり動く気にならなかった。
傍から見ると、机を眺めている様に見える事だろう。が、実際は何を見ている訳でもなかった。
何も見てはいなかった。
頭の中に、繰り返し繰り返し、途切れる事なく疑問の声が響く。
答えのわかりきっている問い。
いつまで経っても答えの出ない問い。
ここで、何をしているんだろう。
時折訪れる、幼い子供達。彼等と一緒に、何を待っていたのだろう。
幼い子らを託した人達は、何処へ消えてしまったのか?
子供達に聞かせる物語。‥‥‥もう、物語の中にしかその人々はいないのだろうか?
‥‥‥自分が行きたかった場所は何処だったんだろう。
待っていた人は、一体何処へ行ってしまったのだろうか‥‥‥。
「オイフェお兄ちゃん、シャナンお兄ちゃん。」
幼い声に呼び止められた二人は振り返った。
他の子供達が出口の方で、今の声の主がやってくるのを待っているのが見える。
オイフェ達は、数日に一度、修道院へ、子供達の母親代わり―――そして、その中の二人にとっては実の母であるエーディンの元へ、会いに来ていた。帰ろうとした矢先にオイフェとシャナンを呼び止めたのは、エーディンの娘、ラナその人だった。
「‥‥‥何だい?ラナ。」
オイフェが微笑みながら問い掛けると、大きな褐色の瞳と柔らかな金の髪をした少女は、少し寂しそうに問い返した。
「ねぇ‥‥‥かあさまは、どうして悲しそうな顔なの?」
思わず二人は顔を見合わせた。
「悲しそう?」
オイフェが問い返すと、ラナはすぐに頷いてみせた。
全く、気のせいだとは思っていないらしい。
「‥‥‥‥‥。」
オイフェが黙り込んでしまったのをみて、代わりにシャナンが、幼い少女に向かって言った。
「‥‥‥そう、見えるとしたら‥‥‥ずっと前からの待ち人の来るのが、ほんの少しだけ遅れてるから、だからだよ。‥‥‥ほら、皆が待ってるから。早く行ってあげないと。」
曖昧にそう言って、セリス達の待っている方へ行く様に促す。ラナは小さく首を傾げ、まだ何か訊ねたそうにしていたが、素直に頷いて、出口へと走り出した。
少女が足早に駆けていくのを見届けて、再びオイフェとシャナンは顔を見合わせた。
―――痛みの残る笑顔では、その傷に気付かれてしまうものなのだろうか?
エーディンが心からの笑顔を見せなくなったのは、数年前、ある時期を境にしての事だった。
イザ−クでシグルド達が彼等の子供達を迎えに来るのを待っていたエーディン達の元に、バーハラで起こった悲劇の報が届いた。
主の死を嘆く暇も無いまま、オイフェはシャナンと共に出来るだけグランベルの目の届かない場所に、セリスを始めとする未だ幼い子供達を連れてゆかねばならなかった。滅ぼされた国の王子であるシャナンも、殺害されたシグルドの軍師であったオイフェも、そして「反逆者」の血を受けた者達も、グランベルの兵士達が血眼になって探し出そうとするだろう。
まだ、「女子供ばかり」の彼等を、グランベルで非道を行った者は恐れたに違いなかった。
エーディンは姿をよく知られているため、修道院へ行く事になった。ティルナノグに身を潜める様になったオイフェ達は、時折彼女の元を訪れる事にして。
ひっそりと過ごしていた彼等の元に、バーハラから逃げ延びた者がやってくる事もあり、その都度、オイフェ達はその無事を喜びあったものだった。しかし、無事にティルナノグまで辿り着いた者は、ほんのわずかだ。
仲間達の無事を祈るエーディン達の元にヴェルダンからの密使がやってきたのは、「惨劇」から、しばらく経っての事だった。
使者が携えていたのは、二つの弓だった。
一つはエーディンが彼女の夫、ジャムカに贈った勇者の弓。そしてもう一方は、彼が国に居た時からバーハラへと赴いたその日まで、決して手放さなかった弓。
‥‥‥その弓の、弦の切れた残骸だった。
『――――――――。』
‥‥‥以来、エーディンの顔から笑顔は消えた。少なくとも、それ以前に見せていた、幸せそうな微笑は失われていた。今の彼女の見せる笑顔は以前と変わらず優しく、柔らかではあるけれど、オイフェ達の目には、どこか昔もっていた輝きの一部が欠けてしまった様に思えるのだった。
エーディンは芯の強い女性だ。幼い子供達がいて、自分が必要とされる限り、生きていける。前に進めるだろう。
だが、彼等が成長し、やがて巣立っていく時、彼女の生を支えるものは、果たしてあるのだろうか。
オイフェには亡き主の忘れ形見がいる。シャナンには、負って立つ国と民がある。子供達には、未来がある。
‥‥‥だが、エーディンが望みをかけるものは、一体何なのだろう。
いつか訪れるその日までに、彼女が「それ」を見つけられる事を、二人は願ってやまなかった。
「‥‥‥‥。」
‥‥‥そろそろ、祈りの時間の筈だ。
そう思ったが、エーディンは椅子を立ち上がろうとはしなかった。
けだるい空気が全身を包んでいて、立ち上がろうとすればするほど、動く気力を削がれていくような気がする。
いつでも、彼女は神に祈っていた。
時には、死者の安らかなる眠りの為に。病に倒れた、貧しい農夫の身体が癒えるように。犯した罪を悔やむ者の、その魂が救われる様に。生まれたばかりの赤児の、その生が幸福なものであるように。
清廉な騎士の、その行く末が幸あるものである様に。
生死もわからずにいた姉の無事の為に。
‥‥‥一人の狩人の願いが、叶う様に。
祈りが届かない事の方がよほど多いのだと、そんな事は、知っていた。
心清き者が救われなかった事など、何度あっただろう。
報われるべきと思えた者が、相応しい幸を得られなかった事など、どれほど目にして来ただろう。
懸命に生きた者が、叶わぬ願いを抱えたまま消えていった事など、数えきれない。
犯した些細な罪を心から悔い改めた者が、赦されぬまま果てた事など、思い出せばきりがない。
それでも、エーディンは祈った。出来る限りの事をした上で、それ以上何もしてやれる事がないのならと、祈り続けた。届くことはなく、叶わぬ内に消えていくものであると知っていて、それでも彼女は祈る事をやめなかった。自分の力の無さ故に、応えぬ神にすがる事も厭わなかった。
‥‥‥だが、それも限界にきているのかもしれなかった。
どうして、「彼等」は消えてしまったのだろう。
どうして、こんな理不尽な事が赦されるのだろう。
辛い想いは、いくつも知っているけれど。
こんなに哀しい人達は、そう多くはいない。
どうして、あれ程懸命に生きて、報われないのだろう。
報われるべき者は沢山いるだろうけれど、彼等は確かにそうではなかったのか。
応えてくれなかった事など、数えきれないけれど。
それでも祈り続けた。祈らずにはいられなかった。
けれど、やはり神は応えてはくれない。
『神は、何も変えない。祈りなど、意味が無い。』
未だ帰らぬ人の言葉だけが、脳裏に響く。
‥‥‥こんなに哀しい事はない。
手が差し伸べられない事の方がよほど多いのだと知っていても、エーディンは祈る事をやめなかった。
‥‥‥だが、今度こそ、それも出来なくなりつつあるのかもしれなかった。
『必ず迎えに行く』
あなたは、私を置いて行ってしまった。
『君は子供達と一緒に行くんだ』
自分なら、命を落としても構わなかったというの?
『約束しただろう?』
嘘をついたの?
『祈っていてくれ―――』
‥‥‥‥‥‥‥
姿を消した人の言葉と、問いかける自分の声とが、エーディンの心の内に次々と浮かんで、消えていく。
今では、何もわからなくなっていた。
彼は、自分を待つ人のいる事を、忘れてしまったのだろうか。
確かに、約束したのに。
知っていたのなら、私を置いて行ったりはしない‥‥‥
祈りでは願いは叶わない。
そう言ったのは、他ならぬ彼自身。
それなら何故、あの人は私にそれを望むのだろう。
自分の恋人が何を思っていたのか、エーディンにはわからなくなっていた。
彼が自分にかけてくれた言葉。それすら、今の彼女には思い出す事が出来なくなっていた。
あなたは自分の帰ろうとする場所にこそ、自分が望んだ幸せがあると、そう言った。
けれど‥‥‥「私も」それを望んだ事を、あなたは本当に知っていたの?
あなたの側に居たいと望んだ事を、あなたはわかっていたの‥‥‥?
―――エーディンは自分の胸元に手をやった。そこには、かつて彼女が恋人から贈られた、木彫りのブローチがあった。
「まだ見ぬ幸福」。それがその花の意味だと、彼はエーディンにそう言った。
ヴェルダンにしか咲かない、青い花。それを、エーディンはイザ−クで探し回った。
誰よりも優しい時間をくれた。出会うまでは知る事のなかった、美しい世界を見せてくれた。
何よりも綺麗な、平和で静かな時間を約束してくれた。私に、それを見せたいのだと言った。
その為に、二人で『帰ろう』と。そう言ったのに。
イザ−クの大地に、この花は咲かない。
あなたの戻らない今、私の「幸せ」は何処にも無い‥‥‥‥‥
「‥‥‥もう、行かないと駄目ね。」
エーディンはゆっくりと立ち上がった。けだるさは消えなかったが、一人でいて、決して応えてくれる者のない問いかけばかりに苛まれるよりはましかもしれなかった。
無心に神を信じ、仕える事は出来なくなりつつあったけれど。祈り続ける事に疲れてはいたけれど。
それでも、何もしないでいるよりはよかった。
失ったものを求めて、それが得られない事に苦しんで。痛みのあまりに、幸せだった記憶さえ消してしまいそうになる。
一人思い悩み、辛さのあまりに忘れていく、その事をただ黙って感じているよりは、叶わぬ祈りに時を費やす方がまだましだ‥‥‥。
窓も、閉めていかないと。
そう思って、再び窓の方を向こうとした、その時だった。
‥‥‥不意に、柔らかな風がエーディンの頬を撫でた。
「‥‥‥?」
ただの風。他の人間なら、そう思ったかもしれない。
しかし、それはエーディンが今までこの地で受けつづけていた「乾いた風」とは、どこか違う様に思えた。懐かしい、優しい人の温もりが、そこから感じられた様に思えたのだ。
エーディンは振り返って窓を見た。
そこに、「それ」はいた。
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