それは、奇蹟だったのだろうか。
俺には皮肉な偶然にしか思えなかった。
始まった戦争。どんな理由があろうと、それは過ちだ。そう知りながら、止める事すら出来ず―――
そんな中攫われて来た、隣国の姫に出会った。
こんな馬鹿馬鹿しい凶事に巻き込まれ、肉親も留守の間に一人異国へ無理矢理連れて来られた挙げ句、相手が体裁を取り繕う為に、望んでもいない「婚約」を強いられる。
‥‥‥哀れな娘だ。
その娘は、俺達にとっては厄介事の種でしかなかった。
おかしな女だ。
町を見たいと言い出したらしい。心細いに違いないだろうに、意識しての事だろうか、奇妙に明るく振る舞う。
俺の前では沈んだ顔を見せなかったのは、気を遣ってでもいるのだろうか。
‥‥‥気にしなければいいものを。
気を遣われる方が罪悪感が募る。いっその事、責められ、罵られた方がましだったかもしれない。
‥‥‥だが、別段、気にも止めていなかった。それでも、どうやら、俺の事は信用してくれた様だった。
変わった娘だった。
きらびやかな城で過ごしていた筈の姫は、質素なマ−ファでの暮らしに不満を感じていない様だった。
修道女でもある筈の信仰心厚い娘は、俺が神など認めない事に腹を立てなかった。
価値観の全く違う彼女は、それでも俺を一人の人間として認めてくれた。
不本意にヴェルダンへ連れて来られたその娘にとって、敵となった国の王子に「こんな戦いは望んでいない」等と言われた所で、一体何を信じられた事だろう。
虫の良すぎる言い訳にしか聞こえなくとも、無理はない。それが当然だ。
‥‥‥だが、彼女はその言葉を信じた。
動乱が鎮まる事を、祈った。
敵味方問わず、数多の戦死者の為にも‥‥‥‥
‥‥‥ザハが、余計な事を喋ったらしい。
妙にものわかりがいいとは思ったが。逃がした筈の姫君は、何故か自分の国には帰らず、戦場に留まっていた。結末を、見届けずにはいられなかったのだろう。
さっさと帰ってくれれば、こっちは気が楽だったのにな。
‥‥‥約束を果たせずに再会した事が、ひどく苦痛だった。
戦いをやめさせると言いながら、親父の説得も出来ないで。非力な姿を見られるのが、情けなかった。
何より、戦場に出るその姿を、知られたくはなかった。
‥‥‥それが何故かは、わからなかった。
「殺しの弓」を手にした狩人の姿に、彼女は驚いてもいなかった。
知らせたくはなかった。
笑ってくれなくなるんじゃないかと、そう思えた。
‥‥‥何故、そんな事がこの上なく堪え難く思えたのだろうか。
彼女の接し方が以前と全く変わっていなかった事に、奇妙な安堵感があった。
別に、構わないはずだったのに。どうせ、長く付き合う事などない‥‥‥
ほんの数日共に過ごしただけの相手の為に、彼女は身体を張って説得に出たのだという。
おかしな娘だ。どうせ、大半の兵力を失ったヴェルダンに勝機などありえなかったのだから、今更和平など望む必要も無い。
俺を生かしておく必要が、何処にあったのか。義理か?生き恥をさらせと言うようなもの。
‥‥‥そんな無茶な説得に応じる俺も俺だ。
馬鹿げた凶事に巻き込まれた、哀れな娘。
考えていたのとは全く違っていた、ひどく変わった娘。
どうでも良かった筈の、その金の髪の乙女が、いつの間にか気になって仕方がなかった。
輝く様な金の髪、女神と見紛わんばかりの美貌。そして、その体に流れる、聖戦士の血筋。
彼女は聖女と呼ばれる、敬虔な僧侶。そして、確かな貴族でありながら、彼女の俺を見る視線に、蔑んだものは何処にも無かった。
彼女の他にも、他国の女には、何人も会った事がある。誰もが何処か見下した様な視線を持っていて―――あるいは、俺達を恐れた。
獣を見る目と同じだった。
けれど、攫われて来たその人は‥‥‥とても好意など抱く事のできなかった筈の、「大国の貴族の姫君」である彼女は、決してそんな目で俺を見てはいなかった。
「あなたにも 幸せが訪れます様に」
母が、好きだった花。幸せの印だった、名も無い青い花。
生まれ育ったこの地を守って生きていくと、かつてそうその花に誓った。
けれど、彼女をその咲く場所に連れていったのは、ほんのきまぐれだった。
「あなたにも 幸せが訪れます様に」
微笑んで、彼女はそう言った。
何故、そんな事が言える?何故、そんな真直ぐな目が出来る?
彼女にとっては何気ない一言だったのかもしれない。
その一言が、どうしようもなく嬉しかった。
『その花は、奇跡なのだと。人に存在を否定され、誰にも気付かれず、森の中にだけ咲く花。けれど、確かにその花は咲いているのだという。気付きさえすれば、降り注ぐ木漏れ陽を受けて、奇蹟は目の前で花開く‥‥‥』
祈りになど、意味が無い。
‥‥‥それが間違いだと思う様になったのは、一体いつからだったろうか。
神など必要ない。
万能なもの、その力を持つものなど、存在しない。存在するとすれば、それは「万能」であるが故に何も生み出さない‥‥‥‥
不可能な事のないものが、一体どんな理由で他者に干渉する事が出来ると言うのか。 万能であるが故に、無為にしかなれない。
神など、いない。
森や湖、そこに住まう精霊達こそが俺達にとっての唯一の上位者。それは、自然の理そのものだった。
精霊達は気紛れだった。あるがままを受け入れるしか、人にはなす術がない。
彼等に頼って願いを叶えてもらう事などない。近しいものではあるが、彼等は畏怖の対象に他ならない。だから、祈りを捧げる行為などは無駄だと思っていた。
祈りなんて、それだけの意味でしかないと‥‥‥そう思っていた。
彼女は、神に祈りを捧げていた。
聖女と呼ばれ、神に仕える聖職者であった彼女が、その行為に何の疑いも持っていない様に見えた。
一体、彼女は何を願っていたのか。
「祈りでは願いは叶わない」
思わず、そんな言葉が口を突いて出る。
それは、俺にとっては紛れも無い事実だった。
だが、彼女は言った。
「それでも、私には祈る事しか出来なかった」
不意に、自分が間違った思い込みをしている様な気になった。
神の奇跡を当てにしている者達。そうだろう?
それが、俺の言葉を否定しないのなら―――何故君は祈る?
祈りになど、意味が無い。
そう思わなくなったのは、いつからだったろうか。
いつも誰かのために祈っていた人。
時には肉親のために、時には仲間や友のために。
それに‥‥‥俺のために、とも。彼女はそう言った。
たとえ、彼等の信じる『神』が何も為さないと知ったとしても、彼等は祈る。
愛しい者の為に、祈らずにはいられないのだという。
力の無さを思い知った時、救いを求めずにはいられないのだという。
初めの内こそ。彼女を見ているのが嫌だった。
無力な娘。祈る事しか出来ない娘。そこに、何一つ変えられない、自分の姿が見えて。
‥‥‥‥彼女は、本当に無力だっただろうか?
「あなたにも 幸せが訪れます様に」
たった一言、それだけで、自分はひどく救われたような気がしたのに。
肉親であった一人の老人の心にすら気付いてやれなかった自分に比べ、本当に彼女は無力だったのだろうか?
彼女は俺を変えた。
俺も、義理の父の弱さを―――本当の息子、自分の父であった人の代わりにでも―――支えてやれていたならば、一体どれ程の人間が救われたかも知れないのに。いくつの命が失われずに済んだか知れないのに。
誰より非力だったのは、他でもない、自分自身‥‥‥
‥‥‥なぁ エーディン。俺がここにいるのは何の為だ?
どうして俺はまだ生きてるんだ‥‥‥?
ただ、誰かの為に泣く事の出来るだけの、優しいだけの娘。
そこにいるだけで 誰かの心を救う事の出来る娘‥‥‥
誰かが自分のために祈ってくれる。
それは、それだけで幸せな事なのかもしれなかった。
幸せを願ってくれる、誰かが居る‥‥‥。
決して相容れない。
その筈だった。
それなのに‥‥‥何故だ?
そこに居たのは、狩人を恐れない、変わり者の小鳥だった。
Continued.