27.約束 


「‥‥‥何度言えばわかるんだ。」
 ジャムカは疲れた様に、軽く額を押さえた。

「君は駄目だ。子供達と一緒に、イザークへ行け。」
 何度となく繰り返される夫の言葉に、エーディンは頑として従おうとしなかった。
「わからないのは私ではなくてあなたです。レスター達は連れていってもらうけれど、私はここに残ります。」
 
 軍内に離軍命令が出されてからの事であった。未練が残る様子で、それでもいち早く指示に従う事を決めたオイフェやシャナン達とは別に、夫がいる多くの女性達は、未だ軍内に留まりたがっていた。
 普段、二人が言い争いをする事はなかった。ジャムカが何事かを言えば大抵エーディンは負担になるまいとして身を退いたし、逆にエーディンがどうしてもと言った場合はジャムカが折れた。
 だが、この時ばかりは、互いに一歩も譲る気はない様子だった。

「君は元々軍人じゃない。デュ−も出ていった。他の治療役のシスター達も、ほとんどが軍を離れる。‥‥‥それに、オイフェやシャナンだけじゃ、子供達の世話は大変だろう。君が助けてやれ。」
「これから先が辛いのは、皆同じよ。それに、あなたよりも私の方こそ関係者なのよ?姉様も残るというし、アイラだって‥‥‥。私は、皆の傷を癒せる。今までと同じ様に前線には出ないし、負担はかけない様にするわ。‥‥‥‥お願い、一緒に‥‥‥。」
「駄目だ!‥‥‥何度言っても、俺には君を連れていかせる気はない。」
 厳しい顔つきで、ジャムカが言い切った。エーディンが、再び何か言おうと口を開きかける。だが、ジャムカにはそれ以上話を続ける気はないらしく、「オイフェ達と一緒に行くんだ。いいな。」と言いおいて、部屋を出ていこうとした。

「ジャムカ!」
 エーディンは必死で呼び止めた。
 思わず足を止め、ジャムカが振り返る。すぐに駆け寄って抱き着いてきた恋人の姿を、驚いて見やった。エーディンはその胸の中に顔を埋めた。

「‥‥‥どうしたんだ、エーディン。」
 溜め息をついて、ジャムカはエーディンの髪を撫でながら、声をかけた。
「少しの間だけだ。落ち着いたら、すぐに迎えにいく。‥‥‥不安だと言っても、度が過ぎないか?」
 その言葉に、エーディンは掴んだジャムカの服の裾を握りしめた。
「‥‥‥様子が変なのはあなたよ。だから、今、傍を離れたくないの。」
「‥‥‥なんだと?」
 ジャムカはエーディンの髪を離したが、エーディンは顔を上げようとはしなかった。


「‥‥‥嫌な予感がするの。皆、それがわかるから不安なのに。‥‥‥それなのに、あなたは様子が変だから‥‥‥。」
 小さな声で、エーディンはそう言った。
「今離れたら、二度と会えない気がしたの。お願いだから、置いていかないで‥‥‥。」

「‥‥‥。」
 やや戸惑いながら、ジャムカはエーディンを見やった。

 二度と会えない。‥‥‥そんな想いを抱かせる程、今の自分は頼りない姿なのだろうか。
 そうかもしれない。そう思ったが、「会えなくなる」と言った、その言葉が彼にはひどく重く響いた。
 離れた方がいいのかもしれない。ジャムカが、今更そう思っていたのは事実だった。
 ‥‥‥だが、離れてしまってもいいのだろうか?

 手放してしまって、それで、自分は構わないのか?


 ‥‥‥何故か、ふと、ブリギッドの言葉が脳裏に浮かんだ。

『あんたが笑わなきゃ、あの子も笑わない。』
 やがて、ジャムカは、何かに気付いた様に微苦笑を洩らした。


 離れた方がいいのかもしれない。そう考えていた自分は、どこかへ消えてしまった。
 ‥‥‥‥愛しい人に、こんなにも、想われていているのに。
 間違いなく、彼女は自分に必要なのに。

 離れられる筈がない。


 しばらくの沈黙の後、再びエーディンの髪を撫でてやりながら、ジャムカは静かに言った。
「‥‥‥心配するな。生きのびて、必ず迎えに行く。‥‥‥必ずだ。『君の元に戻ってくる』と、そう、約束しただろう?」
 口調を和らげて、不安げに自分を見上げるエーディンに、ジャムカは小さく微笑んでみせた。

 恋人の胸元の木彫りのブローチに手をやると、エーディンの視線が彼の腕に沿って手中の青い飾りに注がれた。目的の物に彼女の気を引いた事を確かめると、ジャムカは再び口を開いた。
「この花は、森の弱い日射し‥‥‥木漏れ陽の元でだけ咲く。‥‥‥教えた事があるな?」
 やや首を傾げて自分の顔を見上げるエーディンに、小さく微笑んで見せる。

「‥‥‥どんな花も、光の無い場所では咲けない。森の中に咲くこの花は、木漏れ陽がなくては生きられない。」
 言って、窓の外に僅かに目を向け、すぐに視線を戻す。エーディンはつられて外を見た。
 外には、青空の元、故郷とはかけ離れた場所ではあったが、エーディンにはどこか懐かしさを感じさせる、グランベルの肥沃な土地が広がっている。

 ‥‥‥窓の外に景色ばかりが広がっているのを見て、何を見たのか問いたいのだろう、不思議そうな視線をジャムカに向けた。ジャムカはその視線に気付いたが、直接彼女の疑問には答えなかった。しかし次の彼の言葉で、エーディンはジャムカが何を見つけたのかわかった。
「あの鳥‥‥‥あの変わり者に『木漏れ陽』なんて名前を付けたのは、君だったな。」
 『木漏れ陽』。調子を崩していたその小鳥は、ごく最近になって大分回復したらしく、今は外を飛び回っている筈だった。

「‥‥‥よく似てる。」
 ジャムカが苦笑する。

 人に懐かない筈なのに、狩人である彼を恐れない小鳥。
 彼等を決して『人』とは見ない者。その筈なのに、彼を愛し、受け入れてくれた娘。
 ジャムカにとっては、どちらも「変わり者」だった。
 彼にとってそれは、大半の日光が木々に遮られてしまう中、その枝葉の間をすり抜けてまで薄暗い森の中にまで光を投げ掛ける、僅かな、変わり者の日射しの欠片の様なものだった。
 暖かな、輝く木漏れ陽のような娘。

 エーディンの胸元を飾る、藍青の花。まだ見ぬ幸福。それは、光無くては咲かぬ花だった。
「木漏れ陽無しでは、この花は咲かない‥‥‥‥。」
 思いを反芻する様に、小さく、呟く。
 エーディンはじっと恋人の褐色の瞳を見つめた。


「まだ、やる事が山程残ってるんだ。そう簡単に死んでたまるか。この戦いが終わったら、ヴェルダンに帰れる。‥‥‥君と、それに子供達と一緒に。」
「ジャムカ‥‥‥。」
 自分の名を呟くエーディンに向かって、ジャムカは微笑んでみせた。
「もう、迷いはない。‥‥‥君や子供達と国に帰る事が出来たら、やっと‥‥‥取り戻せる。昔、幸せだった、あの時間。今度は、もう二度と失わない様に‥‥‥‥。」

 恋人の紡ぐ言葉を聞きながら、エーディンは顔を伏せた。顔を、ジャムカに見られたくなかったのだ。
 ‥‥‥‥涙が溢れて止まらないのは、何故だろう?

「君がいなかったら、俺は自分の理想さえ見つけられなかった‥‥‥。」
 彼女がいなければ、彼の「花」は咲かない。

「君にも、見せてやりたい。‥‥‥‥それを、諦めるはずがないだろう?」
 言い聞かせる様に言うと、ジャムカはエーディンを抱き締め、最後に、耳元でそっと囁いた。
「必ず君の元に帰ってくる。だから‥‥‥祈っていてくれ。皆、無事でいられる様に。‥‥‥必ず、もう一度君に会える様に。」


 数日後、オイフェはシャナンと共に、シグルドの息子セリスをはじめ、幼い子供達を連れて、イザ−クへと向かって出立した。

 一時の別れだとは思いながら、皆自分達の行く先に不安を感じて、つい名残惜しい気持ちが強くなるらしく、いざ彼等が軍を離れようとしてもなかなか出発させてもらえないと言う場面もあった。
 そんな中で、ジャムカもレスターやラナ、そしてオイフェ達と共に離軍する事になったエーディンの側にいた。

 生まれたばかりのラナは、最初、ジャムカが眠っている所を抱いて連れて来たのだが、彼が付き添いに向かう乳母に渡そうとした時に急にむずがりだした。どうしても離れたがらなかったため、仕方なくエーディンが抱いていたレスターを乳母に渡し、ラナを直接受けとったのである。それでもしばらくの間、ラナは父親の腕の中を恋しがっていた様子だった。

 ジャムカは少しの間、エーディンの腕の中で自分の指にじゃれついているラナを、口元に笑みを浮かべて眺めやっていた。やがて視線をレスターの方に移すと、自分とよく似たその褐色の瞳を見つめた。
「俺が迎えに行くまで、母さんとラナを護ってやれよ?」
 ‥‥‥彼の言葉を半分も理解したとは思えなかったが、幼いレスターは満面に笑みを浮かべてみせた。
 ジャムカが思わず苦笑する。その顔を眺めやってから、エーディンも口を開いた。
「‥‥‥それでは、私も参ります。あなたも、どうか御無事で。」
 心配そうな眼差しで見つめられ、ジャムカは安心させるように、力強く答えた。
「大丈夫だ。俺を、誰だと思ってるんだ?」
 その言葉に、エーディンは多少不安気な様子ではあったものの、小さな微笑みを返してみせた。

 

「『大丈夫』か。‥‥‥大したもんだな。ああ言えるのは。」
 いつの間にかやって来ていたレヴィンが、すれ違いざまにそう声をかける。振り向きもせずにジャムカは言い返した。
「‥‥‥そうでもない。」

 ああ言わなきゃ、『俺が』不安なんだ。
 口には出さず、心の中で呟いていた。


 進軍が開始された。
 戦場に出てしまえば案外落ち着くものだ。いつものように、ジャムカはそう感じていた。
 戦う前の軍人には迷いも戸惑いも不要なものだ、そう割り切ってしまえば楽なものだった。まして、今回はそれまで以上に余計な事を考えている暇などはない筈であったから。

 ‥‥‥不意に、何かに目の前を横切られてその場に足を止めた。隊列から一度抜けると、何が飛んで来たのかと辺りを見回す。
 そんな彼の元に再び飛んで来たのは、よく見知った、小さな小鳥だった。

 『木漏れ日』だった。

「お前‥‥‥まだついて来たのか!?」
 慌てて部隊から少し離れた場所まで来ると、ジャムカは咎める様に言った。しかし肝心の小鳥の方は、何を気にした風もなく、呑気に毛繕いなどしている。
 ジャムカの中に、後悔が沸いて出た。
「てっきりエーディンと一緒に行ったものと‥‥‥」
 ちゃんと見届けるべきだった。そうしなかった事を悔やみながら小鳥の方を眺めやって―――やがて、ある事に気がついた。
 ヴェルダンにしか住まないはずのこの小鳥が、イザ−クへ行って暮らしていけるのだろうか?

 ‥‥‥無理だ。
 浮かんだ問いに、彼は即座に答えを出した。
 シレジアで体調を崩した事を考えても、仲間も居らず、ヴェルダンとは地理的に対極になるイザ−クの地で、この小鳥が普通に暮らしていける筈がなかった。
「‥‥‥ここまで連れて来たのは、俺か。」
 ぽつりと、呟く。


「‥‥‥本当、エーディンに似てるな‥‥‥お前。」
 ジャムカは小さく苦笑した。
「‥‥‥ごめんな。こんな所まで連れて来ちまって。」
 小さな、哀し気な微笑みを向けられて、『木漏れ日』はきょとんとジャムカを見返した。

「お前も、一緒に帰ろうな。俺達の故郷に‥‥‥。」


 見渡す限り、炎に包まれて。
 辺り一面の、火。
 その起こす風にのって、血の匂いが吹き付ける‥‥‥。

 ‥‥‥何だ?
 
 一人の騎士が炎に包まれた。彼等が認め、長く共に道を歩んで来たはずの、清廉にして勇敢な青年。
 シグルドと言う名のその青年は、『神の火』と呼ばれる炎の魔法によって、業火の中に消えた。

 

 ジャムカは矢をつがえた。
 弓の腕に関しては、大陸でも有数の使い手である彼の放つ、その矢。『殺し』の名を冠する弓から放たれるその矢は、一本放たれる度に一つの命を射抜いていく。
 それは同時に、矢筒の中のその数が減り、絶えず向かってくる敵兵の減らない事実のある限り、使い手自身も刻一刻と死に近付いていく事を示していた。

 『殺人弓』。それを手にする様になったのは、一体いつからであったか。
 望まぬ力であっても。誰かの恨みをかったとしても、人に恐れられても、構わなかった。
 ‥‥‥守り得るものがあったのだから。

 それなのに―――

「何故だ?」
 疑問を口に出しても、切り掛かってくる兵士の中に、答える者は誰もいない。

 何が起きた?

 一人の騎士が殺された。その身に、『反逆者』の名を負って。
 潔白であるはずの青年が、何故そんな憂き目に会わなければいけないのか。
 今、加害者となっている者達は知っていたはずだ。彼等は、「一連の事件の首謀者の一人だった」レプト−ル卿とその軍を討ったのだから。
 それなら、何故―――

 イザ−クとの戦いにおいて所々に見られた、「腑に落ちない」点。祖国ヴェルダンやアグストリアとの争いに関する、不審な言動の数々。
 全て仕組まれていた、そう言う事なのか?
 シグルド公子を、俺達を、捨て石にしたのか?

 嫌な予感は、これだったのか?


 また、新たな敵兵が彼を囲んだ。
 声を上げて襲い掛かる兵士を、手にしたナイフで、何のためらいもなく切り捨てる。随所に負った軽い傷の痛みすら、今は精神を集中させるための刺激でしかなかった。
 一つ、二つと、目の前に屍が積み重ねられる。
 血の匂いで、気が狂いそうになる。


 裏切られた。薄々感じてはいたけれど、それが最悪の形で思い知らされて、後から後から、忘れ去った筈の感情が溢れてくるのを、ジャムカは感じた。

 向かって行く先にいる、緋色の衣の魔道士達。
 その衣に、彼の記憶に焼き付いて離れない、別の色が重なった。
 緋色が、暗い闇色になった。


 ‥‥‥‥殺してやる。


 
 
 

Continued.



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