26.不安 


 ザクソン城の中庭の、兵士達の稽古場の一つ、小さな弓術鍛練場。
 そこに、風を切る音が響いた。春風に吹かれる若葉を思わせる新緑の髪をもった青年が、武具の手入れ用に用意された大きな台の上に座り込んで、小さな的に幾つも突き刺さった矢を興味深そうに眺めている。
 シレジア国王、レヴィン。‥‥‥彼がシグルド達に同行し始めた頃とは、肩書きが変わっていた。シレジアの内乱を収めた後、風魔法フォルセティをその身に宿す正統な継承者として、レヴィンは国王を名乗った。

 彼が国を出る発端となった内乱は、権力争いによるものだった。年若く、先の王の崩御の時点でまだ聖戦士の聖痕が現れていなかったと言うのが、レヴィンが叔父他幾人かの者達に国王として認められなかった表向きの原因だった。無論、権力欲の強い親類達が認めたがらなかったというのが本音だろう。しかし、以前より彼に対する民の信頼は厚く、フォルセティを受け継ぎ戦乱を収めるのに大きく貢献した彼が王位につく事に、もはや異論を唱える者はいなかった。
 その若い風の国の王が、口を開いた。
「見事な腕だ。‥‥‥それにしても、随分と熱心だな。朝から見かけていたと思ったが。‥‥‥いつも、こんなに長い事練習するのかい?」
 そう言う彼の姿は、あまり行儀の良いものではなかった。側の手入れ台の上に腰を下ろしながら、片足を台に上げて、膝に頬杖をつく。そんな格好で、やがて、レヴィンは穴だらけになった的から視線を移した。新緑の瞳の移動した先には、彼のそれらとは対照的な、褐色の髪と瞳を持った青年がいた。


 ジャムカは、弓術が好きだった。
 彼の故郷、狩人達の国たるヴェルダンでは、それは生活の営みの象徴であった。その事も、理由の一つである。かつては彼もよく狩りを楽しんでいたし、弓の練習それ自体を、体を動かす手段の一つとして今でも非常に好んでいる。
 狩人達の、生きた動物達を射抜く技は、図らずも戦場でもっとも威力を発揮するところとなってしまった。素早い小動物すらあっさりと仕留めるその腕前は、戦いの場で人を射抜くには十分だった。
 そして、彼の腕は、「神技の王子」等と呼ばれ技量を称えられると同時に、「魔弾の射手」として恐れられる結果をも生んだ。

 栄誉も畏怖も、それを周囲の者から異名として与えられる事自体は、彼の立場からいけば決して悪い事ではない。人の上に立つ者にとっては、戦いの場で「象徴」となるそれらは、確かに味方に安心感と自信を与える「道具」となる。
 逆を言えば、彼にとってはその程度のものでしかなかった。
 称えられる事も恐れられる事も、戦士としての彼にとっては役立つ事だが、単に「弓使い」としてであるならば決して望む事はなかったに違いない。結局の所、彼の技量は幾つもの命を奪う、殺人術となってしまっているのだから。彼の継いだ技は森の獣を狩る技であったはずで、人を狩るものではない。
 その獣達ですら、滅多な事で同族を殺したりはしないというのに‥‥‥。
 戦場で力を行使しなければならない、それを承知し、望んだ上で求めた技であったとしても、その想いが消える事はなかった。

 ‥‥‥そう言った経緯も承知の上で、それでも彼は弓術が好きだ。恋人から贈られた勇者の弓の存在が彼の気を和らげてくれている最近では、ますますそれを強く感じる。色々と思う事はあるものの、それでも弓を手放さずにいられる事が、何よりの証拠だった。
 普段ならば他の者を誘って技を競い合う事も多いのだが、今日、彼は一人で稽古場に来ていた。


「‥‥‥いや。国に居た時以来だな、これだけやるのは。久しぶりだ‥‥‥。」
 ジャムカは的を見据えたまま、新たな矢をつがえながら答えた。
 矢は練習用に沢山用意されている筈のものを使用しているが、既に手元の矢筒の中身は尽き始めていた。
「ふぅん。何か、あったのかい?」
 ジャムカは答えずに、つがえた矢を放った。
 矢は、正確に小さな的の中心を射抜いた。
 
 問いに対する沈黙を無言の肯定ととったのか、レヴィンは気を悪くした様子も無くさっさと話題を変えた。
 気を遣ったのか、あるいは単に思いつきか。いずれにせよ詮索する事などはしないまま、彼は軽い口調で言った。
「少し、休んだらどうだ?そう‥‥‥」
 何処からともなく笛を取り出す。
 この辺で、一曲。そう言葉を続けると、人なつこい表情で笑ってみせる。彼の親しみやすさと言うのは、民衆に慕われる一因となったに違いない。
 汗を拭きながら、ジャムカはレヴィンに目をやった。
 シレジア人らしい、新緑の髪と瞳。
 風の精霊に愛された青年。
 
 彼が笑顔で返事を待っているのをみて、思わずジャムカも小さく苦笑した。
「‥‥‥どんな曲でも?」
「どんな地方の、どんな音楽でも、お気に召すままに。‥‥‥一応、稼げる程度の腕は持ってる。知ってるだろ?」
 レヴィンの言葉に頷いて、ジャムカは頭の中で自分の知っている曲名を反芻した。
「それなら‥‥‥。」
 故郷の民族音楽。それを、丁度聞かせたい相手が居る。よく知られた曲を選んだつもりであるし、彼の笛なら申し分はない。

「『精霊の歌』‥‥‥なんて、どうだ?」


「綺麗な音‥‥‥」
 エーディンは、風にのって流れこんだ笛の音に耳を傾けた。神秘的な様でいて、どこか優しさを感じさせる、繊細な旋律。彼女の聞いた事のない曲であったが、誰の奏でる音色かは大体想像がついた。今はシレジア王と呼ばれるべき身である青年の奏でる笛は、楽士のものとして聞いても皆に定評がある。
 澄んだ調べを聞きながら、エーディンは自分の傍らの小さな箱の中にうずくまっている小鳥に目をやった。

―――「どうしたんだ?」

 『木漏れ日』の様子がおかしいのに気付いたのは、最近の事だった。温暖な気候の中で生きていた小鳥にはシレジアの風土は向かないから、体調を崩したのだろう‥‥‥というのは、動物は範疇外だが、と言いながら小鳥を見てくれた医師の話である。
 大事には至らなかったものの、今は自由に空を翔る事も出来ず、部屋の中でじっとしている。
 
 この事を、ジャムカはひどく気に病んだ。
 こんな所まで連れて来たのは自分だ。エーディンに向かって、そう言った。
「この子が望んで来たのよ。あなたの責任じゃないわ。」
 エーディンはそう言ったが、ジャムカは思いつめた様な眼差しを返すだけだった。そして、やがて、小さく呟いた。
「本当に‥‥‥それで良かったのか?」

 あの問いは、一体誰に向けられたものだったのか。
 エーディンは問い返しそうになったが、言葉が出てこなかった。


 誰かの後を追って、そのために災難に会う。故郷を離れ、遠い遠い地へ。仲間も、見知った場所も、どこにも無い‥‥‥。
 それで、本当に良かったのか?

 誰かの幸せを願うあまりに、自分がその障害になるのを恐れて。
 あれはきっと、私にも向けられた言葉。
 彼と共に居る事を選んだ、私に向けた言葉。 

 胸中に小さな不安のかけらが落ちるのに気付いて、エーディンは窓の外に視線を向けた。

 自分が居た場所が遠退いても、それを忘れてしまうくらい側に居たい相手がいた。―――彼は気付いてくれていないのではないか。
 一緒に居たい。そう思っているのが自分だけだと、あの青年は本気でそう考えているのだろうか? 自分は傷つくのを厭わないのに、誰かが自分のために困難な目に会うのを恐れる。

 側にいる事を選んだのは、その笑顔が見たかったから。
 いつか、願いを叶えて、幸せに微笑んでくれるあなたが見たかったから。
 なのに、自分の側にいてもエーディンは幸せになれないと考えている。エーディンの『望み』を、あの青年は知らずにいる。
 いつか、自分の側を離れていってしまいそうな気がしてならなかった。

 『君が居る限り 俺は必ず君の元に戻ってくる』
 かつての約束が、遠く聞こえる。

「‥‥‥離れないで。」


 

 激しい戦いをくぐりぬけ、イード砂漠の北、リューベック城へと辿り着いたシグルド軍は、束の間の休息の時を取っていた。
 今なお軍内にとどまる、決して多くは無い将兵達は、誰もが皆心身共になんらかの傷を負っていた。特に、グランベルを故郷とする多くの者が、である。実父と戦ったドズル公子レックス、それに長く離れ離れだった弟を自分の手で射抜いたユングヴィ公女のブリギッド、そしてエーディンなど、その想いは様々である筈だった。
 言われのない汚名をはらすために、傷だらけになる日々が続いていた。
 それも、王都へ辿り着けば終るはずだった。

 ‥‥‥先日、シグルドの元にはひとつの知らせが届いていた。
 レンスターから自分のために駆け付けようとしていた親友と、たった一人の妹。進軍する後をつけていたトラキアの竜騎士達に囲まれた彼等は、騎兵に向かないイードの砂漠で包囲された。
 幼い娘を抱いていたエスリンは討たれ、娘を人質に取られたキュアンもまた、ゲイボルグを手放し妻の後を追う様に散っていったと言う。‥‥‥彼等の娘、アルテナの生死も知れない。
 最愛の妻の行方もわからない今、シグルドはただ一人、二人の死を知らされても悲しみを閉ざし、沈黙する事しか出来なかった。エスリンと仲の良かったエーディンにもこの知らせはショックが大きかったが、それでも彼女が泣かなかったのは、ひとえに、親友と妹とを同時に失い、それでもその悲しみのはけ口を持たずにいたシグルドを憚っての事だった。
 
 他の者も皆、それぞれの想いを抱きながら、残された時間を過ごしていた。

 そんな中、離軍の命令が、軍内のある層の者達に出されていた。それはひどく広範囲の人間に及んでいて、特に身重の女性、あるいは出産したばかりで幼い子供を抱えている女性達は、なんとか夫の側に留まろうと必死になる者が多かった。
 晴れやかなものとは縁遠い空気が立ちこめていた。


「‥‥‥どういう事だ?」
 ジャムカは静かに尋ねた。問われた、涼し気な目元と深い青い髪の青年は、その平静さに苦笑しながら答えた。
「ここまで深入りさせてしまってすまなかったと思っている。もう充分面倒な事になっていると言われれば返す言葉もないが、君にとっても、これ以上ここにいるのは、良い結果には繋がらないだろう?エーディンを連れて、軍を離れた方がいい。エーディンにかけられた嫌疑の事は‥‥‥私が口を出さなくても、君ならどうにかするだろうな。」
 答えた後、彼はもう一度、ジャムカに微苦笑を向けた。今度は、先程とは別の理由だろう。

 彼等の他に、部屋には人気がなかった。それだけではない。ジャムカをここに呼んだ彼―――シグルドの部屋には、特有の、どこか空虚で、渇いた感があった。
 本来ある筈の伴侶のいる痕跡が、何処にも見当たらないとはこういうものか。そんな事を思いながら、ジャムカの脳裏にはエーディンの待つ筈の自室の事がよぎった。
 ジャムカは相変わらず、表情を崩さぬままで答えた。
「俺の他にも、離軍を薦められた者がいるな。どんな返事を?」
「皆、あっさり断ったな。‥‥‥私は迷惑をかけてばかりなのに。」
「‥‥‥‥。」

 ジャムカはシグルドの表情を観察した。
 疲れているな。最初に感じたのがそれで、次に、彼の決心が変わらないのを感じた。友を失い、父と妹を失い、最愛の妻さえどこにいるかもわからないこの青年は、それでも清廉で潔白だった。
 これが彼の人徳というものか。そう思いながらも、ジャムカには多少のもどかしさがあった。

「‥‥‥あんたも変わった男だな。」
 そう言うと、シグルドは怪訝そうな顔で、ジャムカを見た。ジャムカは構わず言葉を続けた。
「反対派だかなんだか知らないが、あんたに汚名を着せたのがそいつらだとしても、それを受け入れたのは国王だろう?‥‥‥あんた程尽くした臣もいないだろう。その事実よりも奸臣の言葉を選んだ、それがあんたの主だ。‥‥‥なのに、あんたは騎士である事をやめようとはしない。」
 シグルドは、少し驚いた様だった。言外に王を愚かだと言った事を咎められるかと思ったが、彼は困った様に微笑むだけで、何も言おうとはしなかった。

 しばらく沈黙が続いた後、ジャムカは小さく溜め息をついた。相変わらず、表情は変えぬままではあったが。
「あんたはお人好しだ。」
 言われて、シグルドはまた苦笑した。やがて、話を元に戻し、「それで、どうする?」とジャムカに問いかけた。
「‥‥‥人が好いのも程々にしておけ。今戦力が減るのは困るんだろう?俺程度の腕の兵は余っているとでも言うのなら、話は別だが。」
「‥‥‥否。君に居てもらえるのは本当に助かるよ。だが‥‥‥いいのかい?」
 気遣うような顔をするシグルドの言葉に、ジャムカは余計な心配は無用、と言わんばかりに答えた。
「あんたには借りがある。‥‥‥それに、俺の地元の人間はやけにあんたを気に入っているんでな。ここで見捨てたんじゃ、後が面倒だ。大体、エーディンが頷くと思うか?」

 ジャムカの答えに、シグルドが苦笑した。
「彼女もあれで強情な所があるからな‥‥‥。だが君も、エーディンは連れていかないつもりだ。違うかい?」
 断言されて、ジャムカの無表情が崩れる。的を射られ、僅かだが、舌打ちでもしそうな顔を彼がしたのを見て、シグルドは小さく笑った。

「‥‥‥ありがとう、ジャムカ。‥‥‥皆には申し訳ないと思ったんだ。だが、駄目だな。どうしても嬉しいと感じてしまう。」
 そう言って、シグルドは目を伏せて笑みを洩らした。
 ジャムカは声をかけなかった。シグルドを助けようとした彼の友人が、砂漠で命を落とした事は聞いている。
「‥‥‥自分が正しいと思う事を貫いていれば、ついてくる人間はいるものだ。余計な心配をしない事だな。」
 そういうと、ジャムカはドアに向かって踵を返した。彼の背中にむけて、シグルドが声をかける。

「君とも知り合えて良かったよ、ジャムカ。」
 ジャムカは答えず、無言で部屋を出た。 

 閉ざしたドアの前に立つと、ジャムカは出たばかりの部屋の扉を見つめた。
 部屋の中にいる青年、あの男が反逆するような事があるくらいなら、グランベルには忠臣などただの一人もいないという事に違いない。かつてそう思った事があるのだが、どうやらそれは悪い形で現実のものとなっている様であった。

「‥‥‥グランベルの将来など、心配してやる義理はないが。」
 それでも彼を死なせるべきではないと、ジャムカは思うのであった。


 
 

Continued on Page 2. *26章は2ページあります。



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