「‥‥‥『弓の国のお姫様』って?」
 オーヴが訪ねる。デュ−が答えた。
「グランベルの、ユングヴィ公国。聞いた事あるでしょ?エーディンさん、そこのお姫様なんだ。」
 デュ−の言葉に、何故かエーディンは寂しげに苦笑した。

「ユングヴィのお姫様って‥‥‥ヴェルダンの戦争の?だって、ジャムカさんは‥‥‥」
「‥‥‥私も、訊いた事があるの。あの人の弓の事。」
 話半分に聞いていた、遠い国で起きた戦争の事を思い出し、オーヴは怪訝そうな顔で、何事か言いかけた。が、彼の言葉を遮る様に、エーディンは話し始めた。

「ヴェルダンに居た時、少しだけ。教えてくれたのは、あの人ではないけれど‥‥‥言いたくなかったみたい。」
 ―――聞いたのか?この弓の事を。
 自分に向かってそう言った時の夫の苦笑する姿は、まだエーディンの記憶に残っていた。
「初めて訪ねたときには、『狩人の弓』って呼んでいた。狩人が射るべきは森の獣であって、人ではない。あの弓を人に向けるのを誰よりも厭っていたのは、きっと、あの人自身。‥‥‥なら、どうして手放そうとしないのかって。」
「‥‥‥。」
 エーディンの言葉を、オーヴは黙って聞いていた。澄んだ声で紡がれるその言葉一つ一つの響きは、何故か耳に心地よかった。
「あの弓は、あの人の覚悟そのもの。私に弓の事を教えてくれた人は、そう言っていた。何と言われても自分の理想を貫く、その覚悟。‥‥‥彼には力が必要だと。だから、『死の弓』であっても、手放しはしないんですって。」
 デュ−が「難しい言い方は止そうよ」と口を挟んだ。エーディンが小さく苦笑して、言葉を止める。
「‥‥‥結局は君の姉さんと同じなんだよ、多分。ジャムカも、自分であの弓を使う事を決めたんだ。どうしてもやりたい事があるから。お姉さんが騎士として生きたいって言ったのと同じ様に。」
 デュ−はそう「易しい言い方」をした後、「馬鹿だよね」と、小さく呟いた。オーヴが眉を顰める。

 哀しみや戸惑いが薄れる訳ではない。姉にもジャムカ達にも、やはり傷付いて欲しくなどなかった。だが、ジャムカは、ト−ヴェの領主の様に、下にいるものに対して酷い扱いをしたのと同じ事をした訳ではない。オーヴの姉は、今までオーヴに絡んできたあの青年の家族の様に、ただの市民なのに、武器を持った兵士に理不尽に殺された訳ではない。
 オーヴの脳裏に、褐色の髪と瞳を持った青年の、以前の穏やかな表情が浮かんだ。
 思い浮かんだその顔が、先日出会った時に見た、冷たいものに変わる。
 一矢で人の命を奪う、そんな弓を手にした彼は、オーヴの知っている青年とは別人の様だった。しかし今では、どちらも「彼」なのだとわかる。
 感じたのは、寒気がする様な鬼気と、深い嘆きの色。

「‥‥‥頑固なのも損だよね。一度こうと決めたら、てこでも動かない。自分の生き方を通すためなら、誰がなんと言おうと構わない、命なんか惜しく無いって。シグルド公子の軍って、そんな人ばっかり。そりゃ、『何の為』かは、みんな違うだろうけど。無駄死にじゃないかって言われる様な最期だった人も見たけど‥‥‥その人はそれでも満足なんだろうね。自分で選んだのなら。」
 損な人ばっかり。馬鹿だよねと、繰り返しそう言いながら、空を眺めるデュ−の眼差しには、どことなく羨望ににた感情が混じっている様に見えた。

「危なっかしくてさ。仕方ないから、ちょっとくらい付き合ってあげようかって。‥‥‥気侭な暮らしが気に入ってるけど、得体の知れない盗賊小僧を、大事なお姫様守らせる位信用してくれた訳だし、どうせ暇ならそれくらいしてあげてもいいか、って。」
 肩を竦めて言うデュ−を、エーディンは微苦笑を浮かべて眺めている。オーヴにはよくわからない部分もあったが、自分よりも遥かにジャムカに懐いているように見えたこの少年がわざわざ従軍などしている理由は、なんとなくわかった気がした。

「ねぇ‥‥‥ええと、エーディン‥‥様?」
 オーヴがややぎこちない調子で、エーディンに話し掛けようとした。エーディンは、「『様』なんていらないわ」と微笑んだ。
「じゃぁ‥‥‥エーディンさん。‥‥‥辛くないの?」
 言われて、エーディンは形の良い眉を僅かに顰めた。オーヴはその表情をじっとみながらつづけた。

「‥‥‥姉ちゃんは、けじめをつけるまで、騎士をやめるまで帰れないって言った。血のつながってる人なんて、俺達二人だけだったのに、それでも戻ってきてくれなかった。‥‥‥大事にされてたのはよくわかってるけど、姉ちゃんの一番は自分の生き方。それでも、いつか帰ってきてくれるならいいやって思ったけど‥‥‥帰ってきてもくれなかった。帰れなくなっちゃった。」
 言葉の最後に、僅かに俯く。エーディンが傷ましそうにその様子を見やった。だが、すぐにオーヴは顔を上げた。
「どこで傷付いてるかもしれないのに。自分を見てくれる事はないかもしれないのに。‥‥‥帰ってこないかもしれないのに。‥‥‥それでも、ずっと側で待ってるの? 辛くないの?」
 顔上げた少年にじっと見つめられ、エーディンはすぐに答える事は出来なかった。
 脳裏に、愛しい人の顔が浮かんだ。




 ‥‥‥‥それは、ジャムカの祖国では、子供でも知っているおとぎ話だった。
 森に迷いこんだ狩人。運悪く帰り道を見失ってしまった者の中には、本来なら子供にしか聞こえない筈の、精霊の声が聞こえる者がいるのだと言う。
 樹木の精。「彼女」達は、迷いこんだ彼等を魅了し、捕らえて放さないのである。
 森の乙女達の美しい姿に誘われ、その誘いにのった男は、死ぬまでその森に捕われたまま、離れる事が出来ないのだという‥‥‥

『他愛ないおとぎ話だけどな。』
 恋人に話を聞かせた後、ジャムカは気のない声でそう言った。だが、話を聞かせて欲しいとせがんだエーディンの方は、彼に複雑な視線を向けていた。
 他愛ないおとぎ話。

 エーディンの頭に浮かんだ「森に迷いこむ狩人」には、それを語るジャムカの姿が重なっていた。


 森に捕われた狩人。それはあなたの事ではないの?
 どこへ行っても、誰といても、心を捕われたまま、鎖に繋がれたままなのは、あなたではないの?
 いつでもあなたの目に映るのは、あなたを捕らえて決して放さない、深い森の緑‥‥‥

 

 そう思った途端、エーディンは何も言う事が出来なくなり、様子に気付いて怪訝な顔を向ける恋人の身に、すがる様に身体を寄せていた‥‥‥‥。




 

「‥‥‥‥」
 ‥‥‥‥随分、些細な出来事を思い出したものだ。

 オーヴはじっとエーディンの顔を見上げている。エーディンは赤い瞳を見返しながら、しばらく言葉の選択に迷った様子だった。
「そうね。‥‥‥とても、勝手な人。あの人の見ているのはいつも、目の前の景色よりも、もっとずっと遠くにある国。」
 そう言いながら、エーディンは微笑んだ。

「‥‥‥けれど、他の何を捨てても構わないものがあるのに、それでもあの人は私を側に置きたいと言ってくれた。あなたもさっき言いかけたみたいだけど‥‥‥私は、きっとあの人の国には歓迎されないでしょうに。」
 言って、僅かに苦笑する。
「でも、そんなものは変えてみせるからって。自分の理想が叶ったら一緒にいられるって、そう言ったの。間違ってるとは思わない、もう何も大事なものを無くしたくないからって‥‥‥。」
「‥‥‥。」
「自分自身も含めて‥‥‥誰を傷つけたとしてもやめられない事なら、せめてその側で祈っていたい。あの人の為に。その夢の為に失われた命が、安らかである様に。私がしてあげられるのは、側で祈る事だけ。けれど、それでも、あの人はそれを望んでくれる‥‥。」


「‥‥‥‥」
 この人は、あの青年を浄めるのだろうか。オーヴはふと 、そう思った。
 自身の傷に、戦場の泥と血。決して望まず、しかし避けては通れないものと、自分の望みとの間で痛みに耐える青年を、この人は側で安んじているのだろうか。
 消えた命の安らかなる事を祈り、人を手にかける狩人の罪を浄めているのだろうか‥‥‥?

 オーヴは今更の様に問いかけた。
「‥‥‥さっき、姉ちゃんの所にいったのも?」
 問われて、エーディンは黙って微笑むだけだった。


「エーディンさん。そろそろ行かないと。」
 やがて、デュ−が声をかけた。オーヴが何処へ行くのかと訪ねたが、「ちょっとね」としか答えてはくれなかった。
 エーディンがオーヴの前で屈んで、小柄な身体を抱き締めた。オーヴは一瞬戸惑った様子だったが、すぐにされるままになった。
 エーディンが、囁くような静かな声で言った。
「あなたに恨まれても、憎まれても、仕方がないかもしれない。‥‥‥けれど、奪ってしまった命、その事だけはあの人は謝る事が出来ないの。いなくなっていたのは、私達の方だったかもしれない。‥‥‥それだけは、わかって。」


 
 
 

Continued.



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