19.悪夢 


 ‥‥‥立っていたのは、深い暗闇の中だった。

 後にも先にも何物も見えず、前も後ろもない。ひんやりとした感触。一筋の光も射し込まず、目の前には、ただ虚ろな闇の広がるばかりである。
 ジャムカがいたのは、そんな場所だった。

 不吉さに戸惑いながら、行くあても無く足を一歩踏み出す。すると、ものの2、3歩で不意に足下の感触が変わり、泥の中に浸かってしまったかの様に、身動きがとれなくなった。
 粘着質の闇色の泥の中、彼を見つめる濁った瞳が見える。
 暗い影を落とした、黄色味を帯びて輝く目。
 血に塗れたその顔は、かつて祖国を戦の渦中に巻き込んだ闇魔導士のそれであった。


「‥‥‥っ‥‥‥」
 腰に下げたナイフを鞘から引き出そうとしても、思う様に身体が動かない。血塗れの顔が薄笑いを浮かべる。泥の中から、人間の腕が伸びてきて―――

 ‥‥‥‥不意に、それが姿を消した。同時に、足下の感触も再び何事もなかったかの様に元に戻る。
 ジャムカがしばらく足下をみつめ、立ちすくんでいると、今度は背後にそれまでとはまた別の気配を感じた。
 先程の不吉な気配とはまた違う、悲しい感覚。


 振り向いた先にいたのは、一人の若者だった。戦装束をしたその身体の胸の辺りに、見覚えのある矢が突き刺さっている。
 彼の弓から放たれる、『魔弾』‥‥‥。
 それは、故郷での戦いの折、本城へと向かおうとした時に手にかけた一人の兵士だった。
 胸に矢を突き立て倒れた、その記憶のままの姿の相手を見て、ジャムカは動く事が出来ない。ナイフを抜く事も、背負っている筈の弓をとり矢をつがえる事も、何故か出来ないのだった。
 この世に居ないはずの若者は、こちらへむけてゆっくりと血塗れの手を伸ばしてくる。
 
 若者の手がまさにジャムカに触れそうになった時、煙が風に流されるかの様に、その姿が、一瞬でかき消えた。思わず手を伸ばしたが、「それ」はその手に触れる事もなく、散っていった。
 心のどこかで避け続けてきた部分が、現れては消えていく。そして、ジャムカはそれらを前に、後に退く訳にも、目を背ける訳にもいかなかった。
 
 体が、動かなくなる。
 忘れたくても、決して消える事のない記憶。忘れてはいけない記憶。
 背負いつづけなければならない、彼の業。

 やがて、馬の嘶きが聞こえてきた。


 ‥‥‥誰だ‥‥‥?

 現れたのは、彼の記憶の何処にも存在しない相手だった。純白の馬の背にいるのは、華奢な印象を受ける、一人の騎士。その顔は、闇に隠れてジャムカの方からは見えない。ただ、その背に流れる、真直ぐに伸びた淡い金髪だけは確かめる事ができた。
 
 騎士が、剣を手にこちらへ向かってくる。暗闇の中、純白の馬とその背に乗る騎士の姿、そしてその持つ剣の光が浮き上がって見えた。ジャムカはキラーボウをとり、矢をつがえる。
 先手を打たなければ、自分がやられる‥‥‥。

 やがて、白馬が駆け出した。白刃を目に映し、ジャムカは呼吸を合わせて矢を放った。風を切る音と共に、必殺の矢が正確に騎士の胸を射抜く。
 騎士が馬の背から落ちていく。突然、その姿を隠すように、何か白いものが風にのって舞い、滝のように溢れて、ジャムカの視界を遮った。
 純白の花びらの様な、白銀の雪のような、何か。

 白い中を、騎士の金の髪と、深紅の色をした点が視界に入る。
 鮮やかな、紅い色。それを目にした時、ジャムカを強い衝撃が襲った。得体のしれない、強い後悔が沸き上がる。

 何だ‥‥?

 放ってはいけなかった矢。身に覚えのない罪悪感に襲われた時、その声は聞こえた。

 ジャムカ‥‥‥ジャムカ!


 ジャムカは寝台の上に勢いよく身を起こした。

 全身を、冷たい汗が濡らしている。傍らには、不安気な顔で彼をみつめている恋人の姿があった。薄暗い闇の中、気遣う声が聞こえてくる。
「ジャムカ‥‥‥大丈夫?」
 その声に、すぐには応えてやる事が出来ず、ジャムカは顔に手をやって額を拭った。ひどく汗をかいているにも関わらず、周りの空気は冷たく、重かった。先程まで感じていた、ひんやりとした感覚を思い出す。再び、エーディンの声が聞こえた。
「すごくうなされてたから‥‥‥。」

 ‥‥‥夢?

「ジャムカ‥‥‥?」
 エーディンが不安気に話し掛けながら、ジャムカの顔に向かって手を伸ばす。自分自身を落ち着かせようとするかの様に、ジャムカはその手をとり、そっと口付けた。
 やがて動機の収まってくるのを感じると、静かに答えた。

「‥‥‥何でもない。少し‥‥‥嫌な夢を見ただけだ。」
 エーディンが不思議そうな顔をするのが、暗い中でも気配でわかる。しかし、ジャムカの様子を見て、返事を聞いても、不安が尽きない様であった。
「‥‥大丈夫だ。」
 エーディンは今度は両手を伸ばしたかと思うと、そのまま彼の頭を抱き締めた。
 ジャムカは、されるがままに任せた。その胸の中で温かな感触に包まれながら、自らに言い聞かせる様に、もう一度呟く。
「大丈夫‥‥‥ただの夢だ‥‥‥。」

 ただの、夢だ。

 心の中で再び呟きながら、先程までの悪夢がジャムカの頭を離れる事はなかった。

 夢の最後に感じた衝撃。
 強い後悔を思い出して、不吉な予感が胸をよぎる。


 あれは‥‥‥何だったんだ?
 
 薄暗い闇の中、彼の問いに答える者は誰も居なかった。


 
 
 

Continued.



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