17.公女 


 マディノ城滞在中の、ある晩の事。


 エーディンは夜空を見上げた。
 マディノ城の屋上、一人風に当たるには少々肌寒いその場所に来たのは、星が見えるかとも思っての事だったのが、視界に入る星々の光は期待していたよりも暗く、小さい。
 対岸に見えている、オーガヒルの海賊達の灯しているかがり火のせいだろう。
 夜の海に灯火が映える様は、平穏や静けさとは無関係ではあったけれども、暗い中に浮かぶ光につい目が吸い寄せられてしまう、一種異様な美しさがあった。
 出撃を翌日に控えた軍の内部にあって、相手の陣地を見て幻想的だなどと思ってしまうのは、やはり不謹慎だろうか‥‥‥ふと、そんな事をかんがえる。

 普段のエーディンならば、決してそんなものを美しいとは思わなかっただろう。だが、今夜、彼女の様子は、少しだけ、いつもとは違っていた。
 昼間、村で得た情報。その村人の言葉を思い出す。
「オーガヒルの海賊がこんなひどい事をするなんて。あのブリギッドとか言う女頭目を、信じていたのに。」
 オーガヒルの海賊達。神の塔と、かつては頻繁に行われていた、ブラギを信ずる者達のその地への巡礼。
 記憶の片隅で、見知った人々のかつての言葉の断片が、いくつも浮かんでは消えていく。


 申し訳ありません―――手を尽くしましたが ブリギッド様の行方は―――
 ひょっとしたら もう―――
 もう少し、探してみてくれ。あの子はきっと生きている―――
 第一公女、弓使いウルの直系―――
 家督は―――

 ―――姉様は生きてるわ!私にはわかるの。姉様がいなくなったりするわけない―――


「‥‥‥エーディン?まだ起きていたのか?」

 ‥‥‥この夜、『彼』は見張り番だったらしい。
 不意にかけられた声に、エーディンは振り返った。まっ先に見えたのは、かがり火などよりも、むしろ空の星々の、小さくとも澄みきった光をうけて輝く、そんな深い褐色の瞳。

「ジャムカ‥‥‥。ちょっと、寝つけなかったの。」
 小さく微笑んで答える。暗がりの中で、彼に自分の表情が見えたかどうかは定かではない。もっとも、見えない方が良いのかもしれない、エーディンはそう思った。
 自分がどんな表情をしているか、果たして本当に笑顔を作る事が出来たかどうかは、彼女自身にもよくわからなかった。
「明日から、また忙しくなる。今のうちに休んでおかないと、身体が持たないだろう?」
 恋人の優しい言葉に、少し困った様に曖昧に微笑んでみせた。
 確かに、戦いが始まれば彼女に限らず誰もが忙しくなるはずだ。そして、エーディンは、連日の傷病兵の手当てによる疲れがまだ身体から抜け切っていない。休息が必要なのを、彼女自身が一番良く知っていた。
 だが、いざ床に入っても、何故か、いつまで経っても眠れないのだった。
「‥‥‥どうしたんだ?」
 エーディンの不安定な様子に気付いた様で、ジャムカがそう声をかけた。低い、穏やかな声。
 ‥‥‥その声を聞くと、エーディンの中にあった異物感が、ほんの少しだけ和らぐのだった。
「ブリギッド姉様の事‥‥‥考えていたの。」

 

 ジャムカは、ただ黙って彼女の側に立っていた。自分と相手との間に流れる空気があまりにも静かなものだったので、いつしか、エーディンは独り言でもするように、その話を始めていた。
「姉様がいなくなってから‥‥‥当然だけど、ユングヴィは大騒ぎだったわ。私の父も、皆に頼んで必死に行方をさがしてた。でも、後で聞いた話なんだけど―――」
 考えを整理しようと、一度言葉を切った。
 エーディンが当時の事を思い出す時は、いつも様々な感情が心の中を通り抜けていく。自分の精神が不安定なままなのを感じながら、彼女は話しを続けた。
「姉様を攫っていった海賊団っていうのは、なくなっていたって。あの辺りの海賊団って言うのは当時沢山いて―――やっぱり対立があって、義賊だと言われていた一団との抗争で、潰れてしまったって。姉様の行方は、わからなくなってしまった。わかっていたら、必ず助けに行けたんでしょうけど‥‥‥。」
 ジャムカは黙ってエーディンの話に耳を傾けていた。無言で彼が視線を動かすと、城壁からの対岸の光景が視界に入り、暗闇に浮かぶかがり火が、褐色の瞳に映るのが見えた。
「私も、お父様も、諦めなかった。それに私は、姉様がいなくなったなら、きっとわかる筈だって信じていたから‥‥‥。けれど、周りにはそうじゃない人も沢山いた。もう、生きてないんじゃないかって‥‥‥。」


 ―――姉様は、いなくなってなんかいないわ!―――
 姉様は絶対帰ってくるわ。
 もう死んでしまったなんてそんな事を言ったら、戻られた時に姉様の居場所がなくなってしまう‥‥‥。

「お父様は諦めたりはしなかったけれど、何より公爵の身分がある人だから。生死のわからない一人の為に、いつまでも固執する訳にはいかなかった。姉様が生きているのがはっきりとわかったのは、私だけだったから。‥‥‥お父様にも、わからなかったから。」


 記憶の片隅にずっと棲んでいた、自分の思い。それが言葉になって脳裏をよぎると、何故か、泣きたくなった。涙声にならないよう、ジャムカに気付かれないように必死になりながら、エーディンは話し続けた。
「双子の姉妹。誰もそんな事を言う訳じゃないのに、いつも人から姉様の面差しを重ねられるように思えたの。‥‥‥けれど、多分、一番それをしていたのは私だった。」
 いつの間にか、随分と、長い時間が過ぎていた。仲の良かった姉。明朗快活で、いつも弟と、同い年でありながらエーディンの事も気にかけていた、しっかり者の娘。彼女の存在は、人々に、まるで太陽そのものの様に思われたものだった。今は、どんな姿でいるのだろうか。
「‥‥‥いつの間にか‥‥‥姉様の影を求めてた。誰よりも強く、誇り高いユングヴィの第一公女‥‥‥弓聖ウルの直系で、神の弓イチイバルの使い手である人。」
 次第に自分の声が呟き程に小さくなっていることに、エーディンは気付かなかった。
「まだ生きているんだって叫んでも、空回りするばかりで。お父様が、周りの皆が、時間が経つうちに少しずつ諦めていって‥‥‥。姉様の存在を消されてしまうのが嫌だった。生きている事が、私にはわかるのに。姉様の居場所を無くされたくなんかなかった‥‥‥。」

「私は姉様の代わりじゃないし、そうなれる筈のないのはわかっていたのに。結局、最後には何も出来ないんだと思った。姉様の様に、いるだけで周りが明るくなる、太陽にはなれなかった。どうしようもない気になって―――それならせめて、姉様だけじゃない、誰かの為にと思って祈ったわ‥‥‥。私には、それしか出来なかったから。たとえ、祈りが届かなくても。」
「‥‥‥‥」
 突然、エーディンは背後から抱き締められた。エーディンはすがるように、身体の前に回された腕に手をやった。
「‥‥‥ねぇ、ジャムカ。どうして、あなたはここに居てくれるの?‥‥‥私には何も無いのに。あなたが一番、その事を知っていると思ったのに。」
 無力なのが、哀しかった。
 祈る事しか出来ないのが辛かった。


「‥‥‥‥‥」
 ジャムカは、エーディンの言葉の中にわずかな泣き声が混じっている事に気付いて、言った。
「‥‥‥俺がここにいるのは、今君が居たからだ。」
「‥‥‥?」
 ジャムカの言葉に、エーディンは不思議そうに、少しだけ彼の顔を見上げた。暗い中で、僅かに浮かんで見える白皙の顔を見ながら、もう一度口を開く。
「‥‥‥この答えで不満なら、俺も君に訊く。『どうして側にいてくれるんだ?』。」
「‥‥‥ジャムカ‥‥‥。」

 ‥‥‥考えてみれば、ジャムカにも思い当たる節がないではなかった。「祈りなど意味がない」と、そう言った時、無理矢理に見せた悲し気な笑顔。まだ、彼ははっきりと思い出す事が出来た。

 ―――それでも 私にはこれしか出来ないから―――
 
 だが、ジャムカにしてみれば、それは決して無力な仕業ではなかった。
 『祈りなど、意味がない』
 少なくとも、彼にとって意味がない事などなかったはずだった。

「俺は君に居て欲しいと思った。‥‥‥君が無力なものか。」
 祈りに意味がないなどと思わなくなったのは、彼女に出会ってからだった。


「あのヴェルダンの戦で、俺に自分の信じるものを追わせたのは君だ。‥‥‥間違いではなかったと、信じさせてくれたのは君だった。」
 その祈りが通じるものであろうと、あるいは届かぬものであろうと、構わなかった。
 ただ、真直ぐに彼を見ていたその眼差しと。気遣い必死になってくれたその言葉が、迷いを断ち切らせたから。
 たとえ太陽の光を受けてしか輝けない月だと言うのだとしても、姿を消した太陽と、自分を取り巻く全ての為に輝こうとする、その柔らかな光が与えてくれる安らぎが、何よりジャムカには愛しかった。

「俺を変えたのは、君以外の誰でもない。‥‥‥‥祈る事しかできないと言って、それでも他人の為に祈り続ける事が出来るのなら、それが君の力だ。他に、何が要る?」
 エーディンの手が、ジャムカのまわした腕を強く掴んだ。
 泣いている様だった。
「親身になって、懸命に他人の事を考える。自分以外の者の為に心から悲しむ事が出来る。君がそうするだけで、救われる者がどれだけいるか。」

 何もかもを諦めようとしていた夜。ジャムカにかけられたのは、ともすれば途切れがちになりそうな、飾る事のない、拙い言葉。
 どんな慰めより、どんなに整った言葉より、それは彼の耳に真摯な響きをもって流れ込んで来た。
「優しさ故に人を安らがせる事が出来て、たとえどんな理由からでもそれを貫けるとすれば、それが君の強さだ。‥‥‥太陽に例えた君の姉にも、何も劣る事などはない。」

 

 言葉を切り、しばらく黙り込んだ後、ジャムカは再び、静かに声をかけた。
「昼間得た村人の情報も聞いた。君の、姉さんの話だ。‥‥‥義賊と呼ばれていた者達が急に暴れ出したと言うから、きっと何かあったんだろう。」
 髪を撫でながら、なだめる様に言い聞かせる。
「いずれ、皆で探す。だから、もう休め。」
 少しの間、ジャムカは黙って恋人の様子をみていた。時折聞こえていた小さな嗚咽は、止まっている様だった。
 ‥‥‥泣き止んでくれただろうか?

「休まないと、身が持たない。‥‥‥無理して身体を壊されたりしたら、俺が困る。」
 少しだけ言いづらそうに、ジャムカはそう付け足した。
 僅かな間を置いて、黙り込んでいたエーディンが、そっと顔を上げる。
「‥‥‥ありがとう、ジャムカ。」
 エーディンの顔は涙の跡の残ってはいたが、そこには笑みが浮かんでいた。

 言葉一つさえ手放したくない。かつてジャムカはエーディンにそう言った。だが、相手のくれる言葉の一つ一つが愛しいのは、エーディンも同じだった。
 離れたくないと。心の底から、そう思えた。


―――数日後、エーディンは長い間探し求めていた姉との再開を果たす事になる。


 
 
 

Continued.



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