ジャムカは城の中へと戻ると、城内の長い廊下を目的の場所へ向かって、ゆっくりと歩きだした。
まだやはり体調が万全な訳ではないらしく、どうしても動きが緩慢なものになりがちだった。じきに回復するだろうと気楽に考えてはいるものの、動きが鈍くなると言うのはどうしても気分のいいものではない。弓の稽古でもしたい気分だった。
進んでいくうちに、向こうから誰かやってくるのが見えた。翡翠の髪と瞳を持つ青年は、ジャムカがその顔を確かめるより早く、自分から話し掛けてきた。
「ジャムカ王子。もう、お体の方は大丈夫なのですか?」
「‥‥‥見ての通り。ま、歩けるくらいにはな。」
ミデェ−ルが向こうからやってきたと言う事は、エーディンの元へ行っていたのだろうか。ジャムカは彼女が自室にいるかどうか訪ねた。
「‥‥‥ええ、いらっしゃいます。多少お疲れの御様子ではありましたが。」
「そうか。」
短く答え、再びジャムカが歩き出そうとすると、ミデェ−ルが再び口を開いた。
「まだ、『関わる訳にはいかない』と‥‥‥‥そうおっしゃるつもりですか?」
ミデェ−ルの言葉に、苦笑して振り返る。
「‥‥‥いや。」
もう、手後れだ。
一言答えて、ジャムカはその場を後にした。
なるようになるだろう。
「‥‥‥‥。」
ミデェ−ルは少しの間後ろを見送っていたが、やがて無言で目的の方向へと歩き出した。
‥‥‥‥この期に及んで、まだ「関わる訳にはいかない」等と言うのであれば、彼を止めるつもりだった。しかし、そうでないのなら。
今だけ。
この一度だけは、場を譲ろう。
エーディンの部屋の前までやって来て、ドアをノックする。ミデェ−ルは「居る」と言っていたのだが、何故か、応える声はなかった。室内に人の気配を感じて訝し気に思い、やや躊躇いながら、わずかにドアを開けてみる。鍵は、かかっていなかった。
エーディンが机の上に顔を伏せ、眠っているのが見えた。ミデェ−ルに訪ねる事を咎められなかったと言う事は、彼に会ってから居眠りでもしてしまったのかもしれない。
入っていくのは流石に気が引けたが、放っておくのもどうかと悩んだ末、側にあったショールをエーディンの肩にかけてやる事にした。その後、もう少し経ってから出直そうと、再びドアへと向かう。すると、不意に背後から名前を呼ばれてジャムカは振り返った。
いつ目を覚ましたのだろうか。エーディンは椅子に座ったまま、身を起こしてこちらを見ている。
「‥‥‥起こしたか?悪いな。」
その言葉に小さく首を振り、エーディンは口を開いた。
「起きても大丈夫なの‥‥‥?」
「‥‥‥なんとか、な。心配させた様だな‥‥‥すまない。」
ジャムカの答えに、エーディンは憮然として言葉を返した。
「‥‥‥助けてくれてありがとう、なんて言わないわ。どうしてあんな無茶したの?」
怒っているかの様な、というより実際に怒っているのだろう。エーディンの言葉にジャムカは答えず、見つめ返した。
「‥‥‥本当に、危なかったのよ。どうするつもりだったの?あなたに何かあったら、困る人が大勢いるのに‥‥‥‥。‥‥‥あなたは‥‥‥」
思わずジャムカは苦笑した。そんな事は、むしろ自分の方が訊きたかった位だったので。
全く、一体何故、あんな事をしたのだろうか。
ジャムカの顔を見て、何故か、エーディンの咎めるかの様な口調はだんだんと弱々しくなっていった。
「なんで、あんな事‥‥‥。」
‥‥‥いつしか、それが泣き出しそうな声に聞こえていた。
次の瞬間、ジャムカはエーディンの手を掴んで引き寄せ、抱き締めていた。
突然の事に、エーディンは抗う事もできずに立ち尽くした。羞恥や拒絶の思いよりも、ただ驚きが先に立つ。
「‥‥‥なんでだろうな。夢中だった。君が、居なくなると思ったら。」
抱き締めたまま、ジャムカは静かに言った。
「全く、馬鹿な事をしたと思ってる。‥‥‥‥何故、ああせずにはいられなかったんだろうな?」
低い声を聞きながら、エーディンはふと我に帰った様に、僅かにジャムカの身体を押して離れようとした。気付いたジャムカが手をゆるめると、半歩程後ろに下がったが、それ以上は動こうとしない。それらは全て彼女が俯いたまました事なので、見下ろす形になったジャムカからはその表情は見えなかったが、その声で、エーディンの様子は大体想像がついた。
「‥‥‥どうして?」
消え入りそうな声で、呟く様に問い返して来た。
「‥‥‥君が居なくなるのは耐えられなかった。あの時は、他のどんな大事な事もどうでもいいと思った。‥‥‥‥君さえ助かるなら、それでいいと思った。」
自分を見ようとしないエーディンの頭上に視線を落として、ジャムカは話し始めた。
ヴェルダンに居た時の事といい、何度でもこんな風に内心を語らせてしまう、彼女の存在は一体何なのだろう。真直ぐな視線をぶつけてくるこの娘は、一体何だというのだろう。
「‥‥‥君と会って以来、いつもこうだ。自分の事で手一杯で、他人を気にする様な余裕などない筈なのに、時折、それすら忘れそうになる‥‥‥。」
酔った様に、他のものが見えなくなる。ほんの、一時の事である筈なのに、その為に全て捨てても構わないとすら思えてくる。
「何故あんな事をしたのか、俺が知りたいくらいだ。‥‥‥何故離れられない。何故、忘れられない?こんな感情は必要ない、命など賭けられない、他にやりたい事がある。‥‥‥なのに何故、それさえ忘れそうになるんだ?」
忘れるべきだった。
忘れられなかった。
「‥‥‥調子を狂わされてばかりだ。森に迷いこんできたり、人が弓をひく前に飛び出したり‥‥‥説教までしてくれたな。」
ジャムカは苦笑した。この娘が体を張って自分を説こうとしなければ、一体どうなっていただろう。彼の生死は、エーディンにとっては関係のない事だった筈だ。グランベルからしてみれば、二度と諍いの起きぬ様、根を断つ事ができる。属国、あるいは国とすら呼ばぬかもしれぬ、少なくとも彼の国の領域下にヴェルダンは入るだろう。
別段、グランベルにとって不都合は無いはずだ。ヴェルダンなど小国、不安定な和平を敢えて再びとる必要も少ない。ジャムカを殺してしまっても、問題はなかっただろう。
だが、それでも、ほんの僅かな時間、抗う機会と気力を与えてくれた事はありがたかった。断たれた筈の理想を、取り戻す機会を手に入れる事ができた。まだ終わっていないのだからと、そう言って、この娘はジャムカにもう一度歩き出す気力を与えた。
エ−ディンがいた。たったそれだけが、あまりにもジャムカにとっては大きくなり過ぎた。
「とんだ変わり者だ。‥‥‥だが、近くにいてくれるのは心地よかった。言葉一つ、笑顔一つすら、手放したくないと思った。‥‥‥‥たとえ、誰に咎められたとしても。」
一度言葉を切って、ジャムカは静かに告げた。
「君が好きだ。」
「‥‥‥好きだ。だから、側に居てくれ。‥‥‥勝手なのは十分わかってる。ヴェルダンでの事が君にとってはろくな過去じゃなかった事も知ってる。‥‥‥それでも、何も伝えないままじゃどうにもならない。」
今も、エーディンは顔を上げようとはしない。それを眺めやったまま、ジャムカは言葉を続けた。
「いつも、近くに居て欲しい。必ず幸せにしてやるとは言えない‥‥‥何をしてやれる訳でもない。他に、やらなきゃいけない事もある。ヴェルダンで皆に受け入れられるかもわからない。‥‥‥それでも。」
気は重い。自分で望んだもの、捨てる事など出来ないとは言え、こんな重荷を背負わずに済むならどれ程楽であるかしれない。
故郷を捨てる事が出来ず、それでもエーディンを側に置くつもりであれば、多少の非難や中傷に耐える事も必要だろう。それに、長い間に育まれた隔たりを無くす事も。ジャムカ自身でさえ、エ−ディンに出会うまではずっと捨てきれずにいた価値観の様なものを、全て変えてしまわなければいけない。
かつて、義父がつくりだそうとし、為し得なかったもの。あまりにも遠い夢。
‥‥‥だが、そんな事は、もはやジャムカにとっては大した苦には思えなかった。
二度と過ちは繰り返さない。自分が過ごして来た平穏の時を取り戻したい。今度こそ、その時間が一時の幻とならない様に。夢のまま、消えてしまわぬ様に‥‥‥‥
そして、それが実現するのなら。確かな信頼が存在し得るのなら。
‥‥‥人の心も変わる筈だった。ジャムカ自身は変わったのだから。今何より望んでいる、その世界であれば、エーディンと共にいる事は誰にも拒絶されずにすむ筈だった。
そんな世界を、つくり出す事が出来るのなら。
そして、彼女さえ居てくれるのなら何だって出来ると、そう思えた。
「‥‥‥変えてみせる。何もかも。もし、君さえ構わないと言ってくれるなら‥‥‥守ってみせる。誰にも、傷つけさせやしない。」
しばらく、沈黙が続いた。
「‥‥‥‥」
エーディンは、結局今まで一度も顔を上げようとしなかった。
突然こんな話をされても、やはり戸惑うだけだろう。そう思いながら、ジャムカは居心地の悪い気分で、黙ってエーディンが答えるのを待ち続けた。
「‥‥‥勝手すぎるわ。」
ぽつりと、呟く様に。エーディンが口を開いた。
「‥‥‥‥」
「あんまりだわ。今まで何を言う訳でもなくて、急にあんな事をして‥‥‥。突然そんな事を言われても、私には何も言えない。」
咎める様な口調にばつの悪い気分を味わって、ジャムカは苦笑いした。
「‥‥‥そうだろうな。すまない。‥‥‥勝手ついでに、今ここで君が『嫌だ』と言ってくれれば、俺もそれで諦めがつく。」
「‥‥‥」
エーディンは答えない。
散々心を乱された上に、目を覚ましたかと思えば、あまりにも唐突な話で、「側にいてくれ」と言う。それも、身勝手を承知の上で、どう返事があったとしても自分は迷わずに済むから、と言うのだ。
自分が他人の事を考えている余裕などないのを知っていて。祖国の為なら、何をも切り捨てかねないのをわかっていて。何をしてやれる訳でもないと、そう言って。
‥‥‥自分の希望が、今は、誰にも望まれないものだと言いながら、それを変えてみせると。
もし、彼が命を落としていたら、エーディンがどんな思いをしたか。この男はわかっているのだろうか?
傷付くのは見たくなかった。それなのに、ジャムカの方はと言うと、勝手に彼女をかばって、今まで生死の境を彷徨っていたのだ。自分を抑えられずにした事だ、と言う。
エーディンにしてみれば、自分のせいで彼が居なくなってしまうのではないかと、不安で仕方がなかったというのに、それをわかっているのだろうか?
勝手な男だ。
黙り込んだエーディンを見て、ジャムカは今更の様に不安にかられた。
‥‥‥‥やはり、言わない方が良かったのだろうか?
声をかける事も出来ずに立ち尽くしたまま、答えを待つしかなかった。
不意に、首に両腕が回された。驚き、思わず身を退きそうになるジャムカに、エーディンは身を寄せた。ジャムカは戸惑いながら細い両肩に手をかけると、躊躇いがちに、未だに顔を見せようとしないエーディンに呼び掛けた。
「‥‥‥エーディン?」
「‥‥‥ねぇ。本気なの?」
唐突に、エーディンが言った。
「誰にも望まれない。一生をかけても、何も変わらないかもしれない。‥‥‥それで、祝福される日はくるの?今まで、誰も叶えられなかったのに?あなたの、お義父様でさえ‥‥‥‥。」
自分の望みの為に、何もかもを変えてみせる。それが間違いではないと確信している。
身勝手な言い種だった。たとえ、それが自分の為だけのものでないとしても。
「変えてみせる、たとえ死ぬまでかかったとしたって構わない。‥‥‥同じ事を願っていただけなのに、俺は親父を助けてやれなかった。‥‥‥今の望みを叶える事が、死んだ者への償いにもなる。作り直す、いや、俺が創る。‥‥‥もう、繰り返さない為に。」
エーディンはジャムカの顔を見た。
自分の為にしか生きられない、身勝手な男。
それなのに、自分以外の者の為にしか生きられない男。
今、その言葉を受け入れるとすれば、それは誰にも望まれない契り。
‥‥‥それが本当だとしたら、それを望む身も罪人なのだろうか?
「本当に、叶うの?‥‥‥まだ、私は何も知らない。静かで平和だったあなたの故郷を、何も見ていない。不思議な森、綺麗な湖、活気に溢れた街‥‥‥何処よりも、綺麗な所。私が見たものは違う。あなたが一生をかけても構わないという、それはどんな場所なの?」
言いながら、エーディンはジャムカの瞳を覗き込んだ。
深く澄んだ、褐色の両眼に、自分の姿が映っているのが見える。
「いつか、見せてくれるの?‥‥‥信じてもいいの?」
いつの日か、この青年が心から笑いかけてくれる日は、来るのだろうか。
エ−ディンの言葉に、ジャムカが、笑顔を見せた。
‥‥‥彼がこんなに穏やかに笑うのを、エーディンはこれまでに一度も見た事がなかった。
「‥‥‥必ず、見せてやる。君さえ側にいてくれるのなら。‥‥‥君が、それを望んでくれるのなら。必ずだ。」
「‥‥‥一つ、約束して。」
しばらく黙り込んだ後、エーディンは口を開いた。ジャムカが無言でその様子を見守る。
「二度と、あんな事はしないで。側にいるから。‥‥‥一人にしないで。」
「‥‥‥。」
「離れないで。置いて、いかないで‥‥‥‥。」
僅かに黙り込んだ後、ジャムカは両手を肩から放し、エーディンの身体に腕を回した。抱きしめる腕に僅かに力を込めて、ジャムカは答えた。
「‥‥‥約束しよう。君が居る限り、俺はいつも君の元に戻ってくる‥‥‥。」
Continued.