窓から差し込む月の光が、主人を失ったその部屋の床を冷たく照らしている。そこに影を落としている小テーブルの上には、一本の酒瓶が置かれている。側の椅子に座ってその中身を口にしているのは、かつて同じ様にそこにいたはずの部屋の主―――その人物を「父」と呼んだ青年。
ジャムカは、一人で酒を飲んでいた。
月光は好きだった。
森で木漏れ陽を浴びている時にも似た感覚を覚える事がある。その光の中にいると、日中の眩しすぎる太陽の下や、日常の中では気付かないもの、そういったものを感じられる様な気がした。母や祖父に聞かされた物語りの住人達、妖精や精霊と言った者達の存在が、日射しの中にいる時よりも近しく感じられる。
―――綺麗な月じゃろう?晴れた夜は、こうして夜空を眺めて酒など飲むのが楽しくてな‥‥‥―――
幼い頃、夜に寝つけず、そんな時しばしばその部屋を訪れる事のあったジャムカに、バトゥは物語りなどしてやりながら、よく言ったものだった。
ここで月の光を浴びているのが好きだ、と。
「‥‥‥‥。」
無言で、手にした盃に口をつける。
ジャムカが飲んでいるのは、部屋にあった地酒である。蒸留酒で、決して安価なものではないが、悪く言えばアルコールばかり強く、大抵の者は水割りにでもしないと手をつけようともしないという代物だ。ヴェルダンではグランベルやアグストリアで造られているような質のいいワインなどはほとんど無く、また、それらの酒が流入する事もほとんどなかった。
「‥‥‥‥」
ジャムカは盃を強く握り締めた。
先程から、一体何度盃を重ねた事だろうか。ひどく強い酒を、もう随分と長い事飲み続けているのに、それは少しも彼を酔わせてはくれなかった。喉を流れ落ちる熱さは、全く味を感じさせない。何かにとりつかれたかの様に、ジャムカは再び盃に口をつけた。
夜の闇の中、月明りだけを受けたその姿は、影となって黒く塗りつぶされた様にも見える。
何故、ここに来てしまったのだろうか。今更ながら、ジャムカは苦々しい思いにとらわれた。
酔って全て忘れてしまいたい。まだ為すべき事が山程残っているジャムカに、己の失態を悔いている余裕などは無い筈だった。自室にでもこもって、一人酔いつぶれてしまえばよい。元々簡単には酔わぬ性質ではあったが、疲労もあり、数回も杯を重ねれば睡魔がやってきた事だろう。
古い記憶、ジャムカに向かって笑いかける義父の生前の姿。それを嫌でも思い出してしまうだろう事がわかっていて、何故、自分はこの部屋に来てしまったのだろうか‥‥‥。
バトゥの遺体は、既に運び出され、棺におさめられて埋葬の刻を待っている。彼の身体は、かつて長男やその妃が葬られた王墓へ送られる事だろう。
確かに、聡明な為政者だったのだ。国内には時として争いを好む様な荒くれが多い事を知りながら、そして強大な隣国が、争いをしかけられるそれ以外の理由によっても自分達を蔑視していた事もわきまえながら、彼は古くから続いた小競り合いや争乱を鎮め、一時の治世を築いたのである。
民は無益な戦によって苦難を強いられる事が無くなった。そして、大きな戦を知らぬ若い世代―――丁度、ジャムカの様な―――は増え始め、彼等と、それに長く続いた争乱に苦しみ、戦を厭う民とが平和な時世を心から望む事で、彼の治世はずっと続いていく筈であった。
一体、いつからおかしくなってしまったのだろう。
もう、この部屋で、幼かったジャムカに物語りをしてくれた温厚な老人はいない。
‥‥‥何故、この部屋に来てしまったのだろう?
再び、自問した。自室に戻って酔いつぶれてしまう事はできた。一人、結果を悔やんで過ごす事はできた。だが、ジャムカはそれをしたくなかった。
目を閉じて現実を見ずにいても、誰も「あれは悪い夢だった」と言ってはくれない。もう、彼は自分の殻にこもって泣くのを許される子供ではない。
‥‥‥ふと、手にした杯を投げ捨てたくなった。
杯を握る手に力を込めた、それとほぼ同時に、静寂に包まれたその部屋に、扉を叩く小さな音が響いた。
「ジャムカ?」
エーディンは部屋の中にいる筈の人物にむかって声をかけた。返事のない事を半ば覚悟していたのだが、しばらくして、扉の中から低い声が応えるのが聞こえてきた。
「‥‥‥開いてる。」
そっとドアを開け、エーディンは部屋の中を見回した。明かりがなく薄暗いため、自然と視線は部屋の奥、月明りの差し込む窓へと向かう。そこには、小さなテーブルと椅子、そしてそれに座っている青年の姿が浮かび上がっていた。
ゆっくりと、歩み寄る。
何か、言わなくてはいけない。そう思ってやってきたものの、一体何を言うべきなのか、エーディンにはわからなかった。
自分に一体何が出来るというのだろう。
慰めも励ましも無意味に思える。確かに何かを伝えたいのに、言葉が思い浮かんで来ない。何も言えないなら―――あるいは何か言う事があったとしても、一人にしておいた方が良い事はわかっていた。
わざわざ押し掛けるような真似をしてまで、一体何が言いたかったのだろう?
「‥‥‥何か用か。」
訪ねられて、言いたい事があるが何かわからない、などと答える訳にもいかなかった。仕方なく、場をつなぐ返事だけをする。
「どうしてるか、と思って。」
「‥‥‥。」
再び、沈黙が流れる。
やがて―――先に口を開いたのは、ジャムカだった。
「‥‥‥馬鹿な話だ。」
「え?」
呟く様に言うその言葉に、エーディンはすぐ聞き返したが、それは聞こえていなかった様だ。独り言の様に続ける。
「結局、親父は死んだ。兄貴達も‥‥‥‥兵士達も、皆。」
疲れ切った声で紡がれるその言葉は、途切れ途切れではあったが、止まる事はなかった。
「サンディマも死んだ。俺が殺した。だが‥‥‥一体、何の意味があった?」
「‥‥‥‥。」
「奴は死んだ。‥‥‥‥だが、遅すぎた。」
エーディンは黙り込み、次の言葉を待っていた。彼女の方からは、影になっているジャムカの表情は見えない。
「‥‥‥一体、何をした?俺がしたのは‥‥‥迷って、君達に刃を向けて、部下達を死なせて‥‥‥挙げ句の果てに、兵士達をこの手で傷つけた事だけ。誰もが、あの男に踊らされていただけなのにな。せいぜいが、奴の後始末。‥‥‥『殺す事』だけだ、出来たのは。」
「ジャムカ‥‥‥」
「止められなかった。‥‥‥一人では、何も出来なかった‥‥‥俺がやるしかなかったのに。」
エーディンは制止するつもりで名を呼んだが、ジャムカはやはり聞こえていないのか、呟きは止まらなかった。
「どんな手段を使ってでも、止めるべきだったんだ。どんな理由があったって、俺達が間違いを犯した、その事に違いはない‥‥‥それを、知っていたのに。親父を支えてやる事すら、俺には出来なかった。」
温厚で聡明であった養父。自分の息子達から民の一人に至るまで、外の国々に対して多かれ少なかれ反感を抱いていたという事実。そんな事は、承知していたに違いない。
だが、それが一体自分達に何をもたらしたのか。争いと文化の破壊、そんなものが続くよりは、根付いてしまった憎悪を取り去ろうとした、その方がいいに決まっている。
彼は、随分と長い間、グランベルと友好関係を保ってきた。それは、その国がヴェルダンなど歯牙にもかけない程の軍事力を持っていたからでもあっただろう。争いを続けていけば、いつの日か、ヴェルダンと言う国そのものが消滅していたかもしれない。
一国の消滅。‥‥‥そうなっていたら、自分達の営みは、全て闇に葬り去られていたのかもしれない。
『グランベルが攻めてくる。』
たったそれだけの言葉が、どれほどの不安を養父に与えた事だろう。
強欲な二人の息子、そしてジャムカですらも気付く事はなかった。老いた国王には、私欲も何もなかった。ただ、国を失う事に怯え、周囲への不信、そして狡猾な魔道士への妄信ばかりが育っていく。
幼い頃から、実の息子に対するのと変わらない愛情を注いでくれた養父の心を、ジャムカは知る事ができなかった。一人の優しい老人の姿を、ずっと目にしていたのに。
これまで過ごして来た時間の長さというものは、一体なんだったのだろうか。
義父は、変わってなどいなかった。
「‥‥‥全く、馬鹿な話だ。気付いてやる事すら出来なかったんだ。」
相手への反感、そして戦の正当性。ただそれだけの事に板挟みとなり、何をするにも迷いを残していた自分が、むしろ滑稽にさえ思える。義父が抱えていた暗闇にくらべれば、あまりにも下らない葛藤だと思えた。
金の髪の姫。‥‥‥優しい娘。
彼女に会って思った。やりなおす事が出来るかもしれない。過ちを認め、立ち直る事が出来るかもしれない。
歪んでいた「何か」を、変えられるかもしれない―――そう、思ったのに。
動乱の終結を誓って城へと戻ったその時に言うべきであったのは、ただの一言だった。
信じるに足る者がいる。だから、もう怯える必要はないのだと‥‥‥
気付く事すらなかった。
暗闇の中、ジャムカの影は微動だにせず、低い声での呟きだけが二人の間を流れていた。
「結局‥‥‥誰一人、助けられやしなかった‥‥‥。」
呟いていただけの彼の声に、僅かに糾弾の声が混じる。それも、自分に向けられたものだ。
「何が『王子』だ!?愚かなのは俺だ。部下の一人も、救えやしない。‥‥‥肉親の一人すら助けてやれない。‥‥‥一体、何のために‥‥‥何のために戦っていたんだ‥‥‥?」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥無駄だった。何もかも。もう‥‥‥誰もいない。」
自責の念だろうか。それとも、喪失感か―――無力を嘆く慟哭か。
言葉に共に、その哀しみをすべて吐き出したかの様だった。やがてそれも終わると、ジャムカは黙り込んだ。
―――もう、終わった。
「‥‥‥まだ‥‥‥」
‥‥‥少しして、エーディンが呟いた。
「‥‥‥‥まだよ。まだ、終わらないわ。」
まだ、終わってなんかいない。
ジャムカが、僅かに顔を上げた。
僅かに月の光をうけて光った褐色の瞳をエーディンは真直ぐみつめた。その口から、澄んだ声が紡がれていく。
「まだ‥‥‥この国はあるもの。‥‥‥あなたは、生きてるもの‥‥‥。」
エーディンは必死だった。
どうしようもない事だったのだ、とは言いたくなかった。そんなものは、ただの同情でしかない。そんな事を言えば、それこそ、彼の行動は全て無駄であったのだとそう思われてしまう様で。
思い浮かばなかった言葉が、少しずつ生まれる様だった。たとえうまく伝えられなくとも、誰より苦しんだはずのこの青年が、自らの努力を詰るのをやめさせたかったのだ。
かつての仲間を手にかける、その選択をさせたのも自分だった。更なる傷を負わせたのは、エーディン自身であったから―――。
これ以上、傷つくのを見ていたくはない。
「王が居なくなっても‥‥‥兵士がいなくなっても‥‥‥、森と湖と‥‥そこに住むすべての人が、まだ、いるもの。それに‥‥‥『あなた』は、生きているから。」
ジャムカが今までしてきた事、それを決して無駄なものだとは思いたくなかった。
争いを止める事は叶わなかったかもしれない。それでも、エーディンは彼に出会い、不信だけをこの国に対して抱かずに済んだのだ。
彼の見せた誠意は、信用する事が出来た。彼の語るヴェルダンと言う国は、決して故郷で聞かされていた「蛮族の国」などではなかった。
エーディンにとって、目に映ったのは、今まで知る事の無かった新鮮なものばかりだったのだから。
このまま、終わらせたくなどない。
「ジャムカ、あなたがいる限り、この国は無くなったりはしない。‥‥‥あなたなら出来る。あなたにしか出来ない。たとえそれが簡単に消えてしまう様なものだったのだとしても、あなたはあるべき姿を知っているもの。‥‥‥‥取り戻して。『あなたが守ろうとした』、静かなヴェルダンの国を―――あなたの、望んだ姿を。あなたの願う、祖国を‥‥。」
「‥‥‥‥。」
ジャムカは、答えない。
「‥‥‥今の貴方にとっては、残酷な事かもしれない。辛い事かもしれない。だから、今だけ‥‥‥今は、休んで。」
「これ以上‥‥傷付かないで‥‥‥‥」
もう、苦しむ姿は見たくない。
―――しばらくの間、沈黙が続いた。
「‥‥‥余計な事、言ってしまったわ。もう、行きますね‥‥‥。突然押し掛けて、ごめんなさい。」
やがて、エーディンは寂しげにそう言って、微笑んだ。
「‥‥‥おやすみなさい。」
そう言うと、ドアの方へ向かって歩き出す。と、その時。
突然腕を引かれて立ち止まってしまい、エーディンは驚いたように振り向いた。引かれた左腕に目をやると、ジャムカの手が、エーディンの服の袖を掴んでいる。
戸惑うその内に、聞き逃しそうな程小さな声で、ジャムカが呟くのが聞こえた。
「‥‥‥‥てくれ」
「‥‥‥え?」
「まだ‥‥‥居てくれ‥‥‥」
―――もう少しでいい‥‥‥だから‥‥‥
‥‥‥泣いているのだろうか。
エーディンの方からは彼の顔は見えなかったが、なんとなくそんな気がした。
そこがつい先程まで戦の舞台だったとはとても信じられない程、ひっそりと静まり返った空気が、彼等を包んでいた。
風のそよぎはほんのわずかで、窓のすぐ外に見渡せる森さえ、彼等の声である葉ずれの音をたてない様にしている、そんな沈黙。
静寂の中、月の光りが音もなく降り注ぎ、二人を照らしていた。
Continued on Page 2. *10章は2ページあります。