‥‥‥エーディンがマーファに到着したのは、丁度日も暮れる時刻だった。
数日前、彼女の故郷であるユングヴィはヴェルダン軍の支配下におかれた。
ガンドルフは、彼女の降伏の申し出を受け入れた。マーファへの同行と、婚姻を条件としての事である。
シアルフィへ救援に出した使いは無事に辿り着いただろうか。ユングヴィの皆は。‥‥ミデェールの傷は塞がっただろうか。救援を求めたシグルド公子はそれに応じてくれただろうか。
故郷への想いがひとしきり頭の中をめぐり、最後に、自分はこれからどうなるのだろうか‥‥そういった不安がエーディンの頭に重くのしかかった。
ガンドルフは門番の若者にエーディンに空いている客室を使わせる様言い付けると、城の奥へさっさと入っていってしまった。
門番は、些か緊張した面持ちで「御案内します」と言うと、エーディンを城の一室へと案内した。
部屋に着いた後、「何かあったら何でもお申し付けください」と口早に言って去っていく。根が優しい若者らしかった。ヴェルダンを蛮族の国、荒くれ者達の国だと聞いていたエーディンは、少し意外に感じた。
門番の後ろ姿に「ありがとう」と声をかけ、扉を閉める。
調度の寝台に座り込み、部屋の中央の小さなテーブルに置かれた弓に目をやった。
黄金色に輝く、細やかな装飾の施された、美しい弓だった。空に輝きだした星の光りをうけて、小さく煌めいている。
大切なものをユングヴィに置いてくれば、金目の物は持ち出されてしまう危険があった。この弓だけは失われてはならないからと、エーディンの頼みでここまで運ばれて来たものである。
聞き入れられる事はほとんど期待していなかったが、どうやらガンドルフは思った以上に彼女を気に入ったらしい。
聖弓イチイバル。聖戦士ウルの使っていたと言われる弓だ。
エーディンは不安気にそれを眺めた。
これからどうすればいいんだろう。そんな想いがエーディンの頭をよぎった時、突然ドアを叩く音が聞こえた。
「‥‥‥どうぞ‥‥?」
声を受け、ドアが開く。
「邪魔をする。ガンドルフはいるか?」
入って来たのは、一人の青年だった。
褐色の髪と、日に焼けた肌。精悍そのものの、整った容貌。しかし、何よりエーディンの興味を惹いたのは、涼し気な、髪と同じ褐色の瞳だった。それは、彼女がこの国に入り、この城までの旅路の中で見たものに、よく似ていた。ほんの束の間、目にする事のできたその一瞬で、彼女の脳裏に焼き付いて離れなかった。それほどまでに美しかったものに。
‥‥‥そう、湖だわ。
あの湖の様に澄んだ瞳‥‥‥。
青年が、再び口を開いた。
「あんたがあの男が連れて来たっていうお姫様か‥‥‥。」
「‥‥あなたは?」
エーディンが聞き返す。
青年が答えようとした、その瞬間。
「よぉ‥‥‥ここに居たのか、ジャムカ。」
入って来たのは、ガンドルフだった。酔った声で青年に話し掛ける。声の調子とその様子からすると、どうやら、祝い酒でも飲んでいたものらしい。
「そこでお前が探してたって聞いたんでな。‥‥何か、用か?」
「‥‥‥用は一つだ。それに、これまでに何度も言ったはずだ。」
険悪な調子で言うと、再び口を開いた。
「何故こんな馬鹿をやった?」
エーディンは、話を聞きながら、側の椅子にじっと座っていた。
ジャムカ‥‥‥確か、ヴェルダンの第三王子‥‥‥この人が?
「親父の命に従って出撃し、グランベルへ攻め込んだ。‥‥‥‥ユングヴィを攻め落とし、捕虜を連れ帰った。‥‥何が悪い?」
ジャムカが声を荒げ、言い合いが始まる。どうやら、この二人は今回の戦いの事で対立している様だった。
「公女をさらってくれば、必ずグランベルは兵を向けてくる。全面戦争になるぞ?戦いが長引けば、いずれ遠征軍も戻ってくる。そうなった時に勝ち目があるのか!?」
「戻ってくるまでに勝てばいいじゃねえか‥‥‥簡単な事だ」
「簡単だと?大義のない侵略戦争で、他国の援助もない。明らかに軍備も劣る‥‥それでこちらに歩があるって?どこが『簡単な事』なんだ?馬鹿げてる!」
勝ち戦に気をよくしていた時にけちをつけられて、ガンドルフは明らかに気分を害した様だった。面倒臭そうにジャムカの言葉を封じようとする。
「親父が決めた事だ‥‥‥俺に文句をいうな。」
父親の名を出せば黙るだろう。そう思っていた様子だったが、彼の思惑通りにはいかず、ジャムカは鋭く切り返した。
「気が進まないと思うなら、あんたも親父を諌めればいい。それが努めだろう。それなのに‥‥‥」
『この女を』と言いながら、エーディンの方に僅かに視線を走らせる。
「‥‥‥この女を連れてきちまった。これでも言い訳が立つと思ってるのか?相手に攻める口実を与えてどうする!」
「‥‥‥さっきからごちゃごちゃと‥‥‥うるせぇっ」
最初の内こそ苛立った様な声で受け答えを繰り返していたが、怒鳴り付けられ、酔いも手伝ったか、興奮したガンドルフがジャムカに掴みかかった。ジャムカが難なくそれをかわすと、再び殴り掛かる。‥‥‥争い始めた二人の様子をみて、エーディンは止めようと立ち上がり、走りよった。
「やめて!」
「うるせえっ!」
逆上したガンドルフが手を上げた。
おもわずエーディンが身を竦めた時、何かが二人の間に割って入った。
鈍い音がして、ジャムカがその場に倒れ込んだ。
「っ‥‥‥」
「なっ‥‥‥‥」
エーディンが息をのみ、ガンドルフが思わず手を止める。
‥‥‥やがてその場に身を起こすと、ジャムカが皮肉気に言った。
「‥‥‥女にまで簡単に手を上げる様じゃ、さらってでも来ないと結婚も出来なくて当然だな。」
「‥‥‥ちっ‥‥‥」
流石に言い返す言葉も出なかったのか、舌打ち一つ残して、ガンドルフは足早に部屋を出ていった。
ガンドルフの退室を見届けてジャムカが立ち上がる。その顔を見て、エーディンが心配そうに声をかけた。
「血が‥‥‥」
「口の中を切っただけだ。‥‥‥騒がせてすまなかったな。」
一言それだけ答えると、部屋の扉へと向かう。
「‥‥‥君は必ずユングヴィへ帰す。少しの間、辛抱してくれ。」
去り際にそういって、ジャムカも部屋を出ていった。
「‥‥‥」
再び一人になり、エーディンは机の上のイチイバルを手に取り強く抱き締めると、そのまま窓に歩み寄り、不安げに夜空を見上げた‥‥‥‥。
ガンドルフとジャムカ、二人の王子が言争いをし、部屋を出ていった後。
その夜エーディンは、疲れているはずなのに目が冴えていて、よく眠れなかった。
不安と寂しさが重くのしかかり、それを振払うかの様に様々な考えを浮かべる。
‥‥‥どうなってるんだろう。
ほんの数十分前に部屋を去った来訪者二人の論争を聞いてから、疑問が持ち上がっていた。
明らかに自分達の不利を知っている者が居て、それでもこの国の王は、侵攻を決めたのだ。何か事情があるのか、それとも有力な切り札があるとでも言うのだろうか。あるとすれば‥‥‥
一体、何だろう?
一人で考えても答えが出るはずもない。やがてエーディンは考えるのをやめた。
‥‥‥少し城内を歩けば、眠れるだろうか。
エーディンはベッドから立ち上がり、ケープを羽織って部屋を出た。
廊下を歩きながら改めて辺りを眺めると、マーファ城はとても質素な造りをしていた。
グランベルでは、どこの城でも、精緻な模様が柱には刻まれ、精巧な調度品が置かれて、城内には華やかさが満ちていた。
神族の血を受け継ぐ各公国はその血統を誇りとし、それにちなんだ装飾が城内を飾っている事も多く、弓神ウルをその象徴とするエーディンの故郷、公国ユングヴィも、その例に洩れない。
しかし、この城にはそれがなかった。
ヴェルダンに受け継がれる聖血脈はなく、儀礼的な装飾もこの城ではほとんど見られなかった。傍を飾っている美しい彫像が、小さな窓から差し込む月の光を受けてわずかに輝く。
端正だが、どこか人間らしい表情というものを持たない、繊細で華奢な二人の乙女の像である。一人は地面に半ば横たわり、清流が身体を濡らすのを任せている姿。もう一人は、そのすぐ側に立ち、草木の葉にも似た長い髪を片手に当てて艶やかな笑みを浮かべた、妖艶な乙女だ。どちらもひどく大人びて見えるのに、何故か、見る者に純粋無垢な子供の様な印象も与える。それが余計に二人を人間らしさから遠ざけていた。
否、人間ではないのだろう。生命と、魅了の力を持つ妖精。エーディンの持つ断片的な知識と照らし合わせても、おそらくこの彫像は、水の精霊と木の精霊を模した物に違いない。
飾り気の少ない城内にそんな象が置いてあるのは、この国が精霊信仰である事に由来する。特定の神を信仰する訳ではなく、自然を司る精霊を崇めているのだ。自然そのものを崇めていると言ってもいい。
彫像は神秘的な輝きを放っていた。
不思議な所‥‥‥
故郷とは全く違ったその光景に、何故かあまり不快感はなかった。むしろ、地味な城内は彼女の故郷の居城以上に開放的で、くつろげる感すらある。時刻が夜であるせいもあるだろうか、原始の静寂と、辺りから感じられる、教会等がもつのとはまた違った神秘性が、ひどく人の心を落ち着かせる様でもあった。
エーディンは、自分が聞かされていた「蛮族の国」に、そんな感情を抱くとは思ってもいなかった。
確かに、彼女の暮らしていたユングヴィの城の様な華やかさはそこにはなかった。‥‥‥しかし。
こんな時でなければ、決して居心地が悪い場所ではないでしょうにね‥‥‥‥
そのまま歩いていくと、正面にテラスが見つかり、それまでの暗い回廊から星の輝く夜空へと視界が開けた。ふと、その端に人影があるのに気付く。
あれは‥‥‥。こんな時間に、何をしているのかしら?
「あの‥‥こんばんは。」
テラスに居た人影が振り向いた。
「あんたは‥‥‥。何をしてるんだ?こんな時間に。」
「眠れなかったから、少し歩こうかと思って‥‥‥あなたこそ、何をなさっているの?ジャムカ王子。」
突然声をかけられ、驚いた様に訪ねて来た褐色の髪の青年に、逆にエーディンは訪ね返した。
「‥‥‥‥似たようなものかな。」
それだけ答えて、ジャムカは黙り込んだ。
どこか思い詰めた様な青年の横顔を眺めながら、エーディンは彼の言葉を思い出す。
――明らかに侵略戦争で、軍備も劣る‥‥それでこちらに歩があるって?――
先程まで考えていた疑問が、再び浮かんだ。
なぜ ヴェルダンはグランベルへ侵攻したのか
答えてはくれないだろう‥‥‥そう思いながらも、思い浮かんだ疑問を消す事も出来ず、エーディンは思い切って訪ねてみた。
「今度の戦いの原因‥‥?」
いきなりと言えばいきなりの質問に、ジャムカは怪訝な顔を見せる。明らかに答えるのを戸惑っている様子でしばらく黙り込んでいたが、やがて口を開いた。
「そうだな‥‥‥君には聞く権利がある。」
そういって、それまでの経緯を語り始めた。
素性の知れない魔導士が現れた事。その魔導士が国王の信頼を得た事。魔導士がグランベル侵攻を「進言」したこと。野心家の王子達が話に乗り、進軍を始めた事‥‥‥
「闇色のローブを纏った祈祷士‥‥‥?」
話を聞き終えて、エーディンはショックを隠し切れずにいた。たった一人の、素性もしれない魔導士が一国を動乱へと導いたと言うのだろうか。
「‥‥‥実際、何故かは俺にもわからん。何かの術でも使ってるのかもしれないな。温厚だった父の考えとは思えない。今は‥‥何を言っても、聞き入れてはくれない。」
呟く様に言ってから、話を変える様に「君は必ずグランベルに帰すから」と言う。そして付け加える様に口を開いた。
「君が戻るとすると‥‥‥やっぱり国の内情なんか話さない方がよかったか?」
苦笑するジャムカを見て、エーディンは夜空に向かって手を組み、目を伏せた。
「‥‥どうした?」
不思議そうに訪ねるジャムカに、わずかに微笑んで見せる。
「‥‥‥祈りを捧げていました。あなたの想いが通じますように。平穏が戻ります様に。」
それを聞いて、何故か、一瞬ジャムカは黙り込んだ。
「‥‥‥祈りね。さすがはユングヴィの『聖女』様。」
やがて、皮肉気に言った。
「本当に、祈る事で想いが通じるとでも?‥‥‥神などいない。いたとしても、何も出来やしない。それが違うと言うなら‥‥‥何故、こんな事になったんだ?神とやらを信じている筈の君が、何故ここに居る?神は、何も変えない。」
どこか、嘲る様な声。それ以上の諦めがこもっていた様にも思える。その一言一言が、今のエーディンには悲しかった。
「何も変えられはしない。祈りなど‥‥‥意味が無い。」
エーディンの顔が曇る。しばらく黙り込んで、やがて再び微笑んだ。
「それでも‥‥‥私にはこれしか出来ないから‥‥‥」
無理矢理に笑顔を見せるエーディンをみて、わずかな後悔の念がジャムカの頭をよぎった。
まずかったかな‥‥‥‥?
「‥‥すまない、言い過ぎた。」
気まずそうに言う。
「‥‥‥あまり歩き回っていると兄貴に見つかる。もう、戻った方がいい。‥‥‥何をされるかわからないぜ。」
ジャムカは、部屋に戻る様に勧めた。彼の言葉に素直にうなずいて、エーディンがその場から立ち去っていく。
「‥‥‥‥。」
ジャムカは少しの間その姿を見送っていたが、やがて視線を外すと、テラスの上の夜空を仰ぎ見た。
星が輝いていたはずの空は、僅かに曇り出していた。
Continued.