―――1年程を経て、優しい、寂し気な笑みを向けたその男と出会った事が、兄妹の記憶の山に埋もれようとしていた、ある日のこと。

 幼い少女が地面に屈みながら、白い壁の建物へ、少しずつ近付いてくる。その奇妙な姿勢は、どうやら少女の足下に咲く色とりどりの花のせいである様だった。
 小さな手に、花束と呼ぶにはあまりにも華奢なそれを握りしめ、少女は自分が兄や仲間達の目の届かない場所に来てしまった事には気付いていない様だった。



 風がそよいで、少女の頬を撫でる。柔らかな金茶色の髪が少し揺れて、少女ははっとした様に、顔を上げた。
 足下に咲く花に気をとられ、摘みながら歩く内に、仲間達と遊んでいた場所から、「院」をはさんで反対側に来てしまった。その事を知って、少女は困惑ではなく、ばつの悪そうな顔をした。
 またやってしまった。すぐに戻ればいいのだけれど、また皆に叱られてしまう。彼女の母の生活するこの修道院へはもう何度も訪れているけれど、決して危険のない場所ではないのだから―――と、世話役の青年達が困ったように言い聞かせる光景が、少女の頭に浮かんだ。
 乾いた土と、濃い色の空がどこまでも続くこの土地で、綺麗な花が咲いていたり、あまりみかけない鳥が飛んでいたりすると、つい気になってしまう。気になるだけならいいのだけれど、気をとられ過ぎて、いつの間にかはぐれてしまう。そんなことを、この少女はたまにしてしまうのだった。頻繁にではないけれど、決して危険のない暮らしとは呼べない生活を送る彼女とその「家族」達にとって、それはいつも大目に見てもらえるような事ではないのである。

 誰かが探しに来ないうちに、早く戻らなきゃ。そう思って立ち上がった時、白い壁の先に、見慣れない人影があるのに気付いて、少女は慌てて建物の角に隠れた。
 誰だろう。黄色っぽい髪の、背の高い―――あくまでも、大人は皆長身に見える少女にとっての事だが―――人影だ。なんとなく、戸惑っている様子の。だが、彼女の「家族」の誰でもない、見知らぬ男だ。
 皆に知らせなきゃ。そう思ったが、見知らぬ者とみえたその男に既視感を感じて、少女は走り出すのをとどまった。
 あれは、誰だっただろう?考えるのではなく、既視感の元となった記憶を探るようにして、少女は自分に問いかけた。
 そうする間にも、院の入り口に近いその場所で、 男は迷っている様だった。時々辺りをうかがうように見回す仕種を繰り返しながら、それでも院の中へは入ろうとしない。
 明らかに態度が怪しいが、それでも少女は仲間達の元へと戻らず、「だれだろう?」と思い出そうとしていた。最初に見たその時、嫌な印象を受けなかったからだ。

 ―――そうだ。
 確か、お兄ちゃんと二人で会ったんだ。あの人はシャナンお兄ちゃんと一緒にいたんだ。

 優しい、寂し気な笑顔をぼんやりと思い出して、少女は男の元へ駆け出した。



「こんにちは。なかへはいらないの?」
 近くまできた所でそっと歩み寄り、声をかけると、男は振り返り、明らかに驚いた様子で、少女を見た。それから大きく息をついて、困惑気味に笑いかけた。
「ああ、びっくりした‥‥‥見つかっちゃってたのか。」
 結わえた金髪を掻きながら、少女の前に屈んで、男が訪ねる。
「久しぶりだね、ラナ。‥‥‥いつからいるって気付いてたの?」
「さっきよ。知らないひとがいるっておもったんだけど、知らないひとじゃなかったから。」
「覚えててくれたから、声をかけてみたんだ?」
 少女の口調にくすりと笑いながら男が言うと、少女は真面目な顔で頷いた。

「独りかい?お兄ちゃんは?」
 また男が問いかけると、少女は少し、うつむいた。
「‥‥‥あっちにいるわ。」
「どうして一緒じゃないの?喧嘩でもした?」
「ううん。‥‥‥お花をつんでたら、知らないうちにこっちへ来ちゃったの。」
 少女は手に持っていた小さな花の束を少し高く上げてみせた。色とりどりの小さな花々を見て、男はまた苦笑した。
「この前会った時、お兄ちゃんと二人で、シャナンに怒られたんじゃなかった?こっちへ来ちゃ駄目だって。」
「‥‥‥いつもより、お花がきれいに咲いているような気がしたんだもの。もどろうとしたら、あなたがいるって思ったの。」
 申し訳無さそうな顔をしていた少女は、その言葉が終わろうとする頃にはもう小さく口を尖らせて、男の顔をじっと見ていた。男は笑った。
「じゃあ、余計な所に居合わせちゃったかな。」



「あなたのこと、お兄ちゃんと二人できいたの。かあさまに会いにきたんでしょう?」
 少女に訪ねられて、男は困惑したように苦笑してみせた。
「シャナンが話したんだ?」
「かあさまととうさまのお友達だって。あのときは忙しかったから、皆に会わないでかえったんだって、そう言ってたわ。」
 頷いて、少女はそう答えた。聞かされたという話を、少しも疑ってはいない様だった。男はそれを見てまた苦笑すると、少しの間黙り込んで、やがて口を開いた。



「‥‥‥『花を摘んでるうちにはぐれちゃった』って言ったっけ。そういうとこ、母さんに似てるね。」
 少し唐突なその言葉に、少女は不思議そうに問いかけた。
「かあさま?‥‥‥どうして?」
「あのね、昔、聞いたことがあってね‥‥‥」
 男はそう言うと、少女の母親が捕われの身であった時の話を、少女に聞かせた。

 少女の母が城下町で見張りの兵士を撒いて、独りで町のはずれにあった森へ入り、後に夫となる人と出会って、その人を苦笑させたのだという。そんな話を聞いて、少女は目を丸くして、小首をかしげた。
「‥‥‥しらなかった。そんなの、まだきいたことないわ。」
「君のお父さんに聞いたのさ、昔。ちょっとからかってやろうと思って、しつこくね。」
 そういうと、男は悪戯っぽく笑い、少女もそれにつられてくすくすと笑った。
 少女の笑い顔を見て、男は小さく微笑んだ。

「ねぇ、なかへはいりましょう。かあさまや、皆に会うでしょう?お話、もっときかせて。」
 少女は勢い込んで、男を立ち上がらせ、腕を引いた。男は何故か、そこで困惑した様だった。
「うーん‥‥‥あのね、ラナ。」
 腕を引く小さな手をそっととって放させると、男は何やら懐から小さく折り畳んだ紙を出し、少女の前に差し出した。
「シャナンに、これを渡して。『神剣の在り処だ』って言えば、わかってくれるだろうから。」
「『しんけん』?‥‥‥シャナンお兄ちゃんのさがしもの?」
「うん、そう。あちこち調べていたらわかったから、その事だけ、伝えに来たんだ。今日は君達が来てるって知らなかったし、神父様に頼んでもいいのかなぁって考えてた所でさ。」
「そのことだけ、って‥‥‥」
 少女は思わず訊ねた。
「また、すぐに行ってしまうの?せっかくきたのに。かあさまに会わないの?」
 困惑した様に男の顔を見る。だが、男は黙って微笑むばかりだった。



 男の表情を見て、少女は少し哀し気に言った。
「‥‥‥あなたのわらいかた、かあさまに似てるわ。」
「エーディンさん?‥‥‥どうして?」
「いつもわらってくれるけど、ほんのすこし悲しそうなの。」
 不思議そうに問いかけた男に、少女は即答した。
 明らかに意表を疲れた様で、男は少しの間黙り込んだ。やがて、またいつもの様に小さく苦笑して言った。
「‥‥‥そうかも知れない。だから、今はまだ、エーディンさんには会えないんだ。心配させちゃうから。」
「あなたは、どうして悲しいの?」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥かあさまと同じなの?」
 問われて、男は小さく苦笑した。
「そうだね‥‥‥同じ理由で悲しい訳じゃないかな。でも、その理由のできた原因は同じ。」
「‥‥‥?」
 意味がわからないという顔をした少女に、男は続けて言った。
「悲しそうな笑い方をするエーディンさんは、見たくない。‥‥‥そういうこと。」
「‥‥‥だから、会いたくないの?」
 問われて、男は黙って微笑した。

「‥‥‥。」
 哀し気に口をつぐむ少女の頭を、男は優しく撫でてやった。
「ごめんね。」
 顔を上げた少女にじっと顔をみつめられて、男は、やはり哀しそうに微笑んだ。



「‥‥‥さて、そろそろ行こうかな。君も、早くお兄ちゃんたちのところに戻った方がいいよ。さっきの紙をシャナンに渡して。でも、他の皆には今日の事、内緒にしておいて欲しいな。」
 そいういうと、それまでの空気を振払うように、悪戯っぽく、男は人さし指を口の前に立てて見せた。
 少女は何故か一瞬困惑したようだったが、やがてそれが消えると、何かに気付いたように慌てて口を開いた。
「ごめんなさい、いままであなたのなまえ、思いだせなかったの。だれからだってその紙をわたせばいいのか、かんがえちゃった。でも、思いだしたわ。あなたがかえったあと、シャナンお兄ちゃんに一度きいただけだけど‥‥‥‥。」
 男は少し驚いたように、少女の顔を見た。
 少女は頭に浮かんだその名前を、うつむき、口の中で何度か確かめるように呟いてから、やがて顔を上げて、男の顔をじっと見ながら言った。
「‥‥‥『デュー』。あなたはおしえてくれなかったけれど、『デュー』さん、だわ。そうでしょう?」
 少女は確認するように、男に問い返した。

 少女の言う事が意外だったのか、男は少しの間じっと黙っていたが、やがて、黙ってにこりと笑ってみせた。
 少女の問いには、「違うよ」とも「そうだよ」とも答えなかった。



「じゃぁ、今度こそ行くよ。シャナンへの言付けの事以外は、皆には秘密だよ?」
 そう言って歩き出そうとした男の腕を、少女は掴んだ。驚いて振り返った男が何か言うより早く、少女は手を放し、ずっと握りしめていた色とりどりの花々の中から一輪、小さな白い花を空いた手にとって、黙って男に差し出した。
 男が屈んでそれを受け取り、「くれるの?」と訪ねると、少女はやはり黙って頷いた。
 手にしたばかりの小さな白い花を、しばらく無言のまま見つめる。

 やがて、男は少女に問いかけた。
「‥‥‥随分色んな花を摘んだみたいだけど、どうしてこの花を選んでくれたの?」
 問われて、少女は今更その事に気付いたように、小さく首を傾げた。
「‥‥‥なんだか、そのお花がいいような気がしたの。あなたは、かあさまが笑うのが好きだって言ったわ‥‥‥‥。」
 脈絡の無い事を言って、少女が男の顔を見ると、男は黙り込んでいた。正確には、黙っていたのではなく、単にすぐには言葉が出なかっただけの事であったが、少女にそれがわかる筈もない。
「‥‥‥ほかの色のがよかった?」
 心配そうに少女が問い返す。男は微笑して首を振った。
「否。‥‥‥この白いのがいいな。どうも、ありがとう。」
 男が言うと、少女はほっとしたように笑った。
 男は、その笑顔を、それこそまるで小さな白い花が咲いた様だと思った。

「それじゃぁ、ええと‥‥‥これがいいかな。」
 男はいいながら、自分の荷物の中から、小さな紅い髪留めを取り出してみせた。小首をかしげる少女の手をとって、小さな手のひらにそれを握らせる。
「ラナにあげる。白い花の御礼にね。」
 顔の前で握った手を開き、中の髪留めについた紅い飾り石をじっとみつめてから、少女は自分も「ありがとう」と言った。荷物の袋の口を閉めている男を見ながら、少女はもう一度問いかける。
「ずっと、かあさまや皆に会わないの?」
 男は皮紐を結んでいた手を止め、くすりと笑って答えた。
「ごめんね。‥‥‥でも、君には会えたし。」
「わたし?」
 問い返しながらまた首を傾げる少女に、微笑して「そう。」と答えてやりながら、男は立ち上がった。

「それじゃぁ。‥‥‥元気でね。」
 そう言うと、寂し気な顔をする少女をみて、男は苦笑した。
「‥‥‥そんな顔しないでよ。さっきはああ言ったけど‥‥‥」
 そういって、男は少し考えた様だった。
「そう、いつか―――いつか、また来るかもしれないし。」
「本当?」
「‥‥‥うん。もしかしたら、ね。だから、笑って送って欲しいな?」
 男が躊躇いがちに頷くと、少女は考え込んだ様子であったが、やがて「きっとよ」と言って、笑ってみせた。
 小さな白い花のような笑顔を見て、男は笑い返した。



「エーディンさん、笑ってくれるようになるといいね。」
 突然、男はそんなことを言った。だが、少女はすぐに頷いて答えた。
「お祈りのとき、いつも神様におねがいしてるの。まだ、かなっていないけど‥‥‥。」
「‥‥‥そうなんだ。」
 男は何故か苦笑したようだった。その笑いかたの意味は少女にはわからなかったが、とりあえず、いつもしているように、少し俯いて、小さな両手を胸の前で組んでみせた。
「こうして、お祈りするの。どこでしても、声は神様へとどくってきいたことあるわ。‥‥‥そうだ。いま、少しでいいから、一緒にお祈りしましょう?」
 そう言って、少女は顔を上げ、男を見た。

 上げた視線の先にあった男の表情の変化に、少女は、少し驚いた。苦笑していた男の表情に、悲しみが混じったように思えたのだった。
 お祈りをしようって言っただけなのに。どうして、そんな顔をするの? そう訪ねようとするより早く、男が言った。

「‥‥‥お祈りは、君がした方がいいよ。オイラのお祈りは、しても届かなそうだから。」
「どうして?」
「さぁ、どうしてかな‥‥‥。昔、ちょっと悪い事をしたからかな?だから、神様が聞いてくれないのかもしれない。」
 苦笑していう男に、少女は口を尖らせて言い返した。
「‥‥‥そんなことないわ。あなたは、わるいひとじゃないもの。」
 じっと男を見返して、はっきりとそう言った。男は少女の言い様に、少し驚いた様だった。
 少女は構わずに、また言った。
「あなたも、わらったほうがいいとおもうわ。かあさまも、あなたも、二人ともよ。」



 それ以上、男は何も言おうとはしなかった。
「‥‥‥ありがとう、ラナ。」
 少女の頭を一つ撫でてそう言ったのを最後に、今度こそ、男はその場を立ち去った。





 ―――その日以来、少女の「お祈り」の内容は、以前より一つ多くなった。





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*このお話は「寄り道」なので、8ページ目へはリンクしていません。
面倒ですが、説明ページか、6ページ目から8ページ目へお進み下さい。










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