――――嫌な夢を、見た。
ジャムカが目を覚ましたのは、まだ辺りが明るくなるには早すぎる時分だった。
再び眠る気にもなれなかったので、ジャムカは出来るだけ音をたてぬ様気を遣いながら、簡単に着替えを済ませた。軽装を纏い、傍らにあった自分の弓を手にとって、部屋を出る。やがて、そのまま外へと向かった。
早朝のみずみずしい空気が、全身を包んでいた。
早起きをする事自体は、嫌いではなかった。むしろ、以前ではそれは彼の癖の様なものだった。
新緑の香りにも似た清澄な大気を肺に吸い込んで、大きく息をつく。『悪夢』によって目覚めるのでなければ、毎朝の様に鍛練に出るこんな時刻が、ジャムカは決して嫌いでは無い。
毎日の様に同じ衝動によって目が覚めてしまい、もはやこれが日課となってしまった。ともすれば気が沈みそうになるのに耐え、憂さが溜まらない様に、体を動かそうと中庭へと歩いて行った。
中庭には、今日も先客がいた。
漆黒の髪と黒曜の瞳を持った女剣士に、それとよく似た面差しをもった少年。おそらくは、彼女が甥の剣術の稽古でもつけているのだろう。あまり気に留めてはいなかったが、打ち合う音と威勢のいい少年のかけ声が、最近はよく聞こえている。
やがて視線を外すと、ジャムカは持って来た矢筒を地面におき、中から一本の矢をつがえ、放った。
風を切る音。続けて二本、三本と弦を弾く。
普段なら神技にも等しい彼の弓術は、しかし今日は普段の冴えが見られなかった。
傷が治り切らない左腕が痛む。
‥‥‥しばらく経った後、ジャムカは打ち込みを止めた。
狙っていた的から逸れた場所に突き立てられている、何本かの『成果』を眺めやって、溜め息を一つつく。傍らに丁度良い大きさの岩が露出しているのを見つけ、その上に腰を下ろした。
ここ、アグスティの城へ彼等がやってきたのは、つい先日の事だった。アグスティの王、シャガールの近衛部隊は、ノディオンのクロスナイツには劣るとは言え、騎士の国の兵士達の中では一流を担う。自然、彼等と対立したその戦は激しいものになり、ジャムカはその中で、多少の傷を負ったのであった。
十分なだけの手当ては済ませておいたのだ。魔力での治療は施さなかったとは言え、城下の医者にも診せた後だ。だが、左腕の痛みは消えず、ともすれば傷口が開いて血が滲みそうになる。
理由はわかりきっている。医師にも当然注意を受けていた。
動かしさえしなければ、傷口はそう簡単に開いたりはしない。
‥‥‥だが、故郷を旅立って以来毎日の様に続く『夢』に、体を動かして気を紛らわせずにはいられなかった。余計に、怪我の治りは芳しくなく、弓をひくその度に痛みが走り、それにつれて集中力は分散する。つまるところ、無意味な行動、鍛練ともならない様な愚行を、わざわざ繰り返している事になる。
全く、好ましく無い状況であった。
呪いでもかかっているのかと、つい馬鹿な事を考えてしまう。連日の様に悪夢で目が覚め、その鬱屈とした気分からのがれるために身体を動かそうとすれば、今度は傷が癒えない。
実際、彼には心当たりがない訳ではない。
シスターの治癒の杖の力を借りて、傷口だけでも確実に塞いでおけばいいのはわかっていた。だが、叶う事なら、自分で出来る範囲の治療のみで傷を癒したい。実際、故郷では彼はそうしてきたのだ。国にも教会はあったが、僧侶達に怪我や病気の癒しを頼んだ事は、ほとんどない。
できることなら、彼等の手を借りたくは無かった。
‥‥‥‥というよりは、『彼女』に。これ以上関わるのを避けたかった。
手を休めると、幾つかの記憶が脳裏に蘇って来た。
『俺たちは『獣』なんだとさ。』
口には笑みを浮かべながら、どこか自棄になったような響きを込めてそう言った兄、ガンドルフに、ジャムカは堪えきれずに怒鳴った。
他国の軍が留守にしたのに付け込んで攻め入り、あまつさえ彼の国の公女を攫ってくるなど、既に許されざる暴挙に出ているのだ。どんなに罵られても、当然だ。
―――何と蔑まれても、全く、仕方の無い事だと。
‥‥‥‥言い返したその時、何故か感じたひどい『痛み』を、今でもジャムカは覚えている。
『ジャムカ、あなたは一体どうするの?』
『君にはもう一度会いたい。その時は―――』
次から次へと思い出すその内に、頭痛がし始めて―――やがて、ジャムカは考えるのを止めた。
‥‥‥どうやら、今朝は何をしても気分を晴らす事は出来そうにない。
「ジャムカ王子」
何時の間にか歩み寄って来ていた人物に声をかけられ、少々驚いた様に、ジャムカは振り返った。
すぐ側に、つい先程まで、甥の剣術指南をしていた筈のアイラが立っていた。
「‥‥‥俺に、何か用か?」
埒も無い思案に暮れるのを中断された事に少々感謝しながら、ジャムカは声に応えた。アイラが小首を傾げると、艶やかな黒髪が僅かに揺れた。
「覗き見をしている様で悪いとは思ったが‥‥‥腕は、大丈夫なのか?」
予期せぬ問いかけに、ジャムカの眉がわずかに動いた。素知らぬ風を装って、口を開く。
「腕?‥‥‥何の話だ?」
「調子が悪そうだった。それと‥‥‥ああ、気付いていないのか。目立たないが、左の袖に血が滲んでいる。」
アイラの言葉に、思わず左腕に目をやった。成程、ほんの僅かではあるが、左袖に黒ずんだ染みがある。もっともそれはごく小さなもので、余程の注意を払わなければ、大方の者は気付かないだろうが。
「‥‥‥大した事はない。」
平静を装って、ジャムカは言った。アイラが怪訝な表情を見せるが、それには気付かないふりをする。
「エーディンに聞いた。‥‥‥治療は受けなかったらしいが、何故治り切らない傷を抱えて、無理な稽古をする?それでは、いつまで経っても完治しない。」
唐突に持ち出された名に、ジャムカは思わず不審な顔を向けた。この女剣士は、先程から、いちいち人の意表を突くのが得意であるらしい。
的を射た指摘に、つい苦笑が洩れる。
「‥‥‥ただの気晴らしさ。朝っぱらから何を、と思うかもしれないけどな。」
「何か、気分を害する様な事でも?」
「‥‥‥。」
問い返されて一瞬黙り込んだ後、ジャムカは呟く様に答えた。
「‥‥‥終わらない悪夢を、見た事があるか?」
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