―――薄暗い中、炎が煌々とかがやく暖炉の前で、一人の女が安楽椅子でくつろいでいる。
 女の足下には上質の毛糸の玉が転がり、手にした編み棒の先にはひかえめだが複雑な模様の入った編み地が続いていた。それは白い手が動く度に細かく揺れ、しばらくその揺れが続いたかと思うと、いつの間にか大きさを増しているのであった。

 薪が爆ぜ、音を立てた。女が手を止め、足を覆う膝掛けの上に編んだものを置いて、暖炉の灯りで目の数を数え始める。うつむくと端正な顔立ちと白い肌が照らし出され、薄暗闇に浮き上がった。白魚のような指が編み目の上を少しずつ動くうちに長い金の髪が肩からこぼれおちて、女の視界の中できらきらと光る。
 女は手を止めると、顔を上げ、深く息を吐き出した。落ちてきた髪をかきあげ、再び編み棒を手にとろうとする。
 すると、ほぼ同じ瞬間に、物音が部屋の中に響いた。
 女が部屋の扉を見、立ち上がって、膝掛けと編み物を椅子の上に残しそこに近寄る。と、無造作に扉は開かれ、廊下の冷気とともに外套を纏った男が室内へと入ってきた。

 女は男の姿を見て、少し驚いたように言った。
「おかえりなさい、どうしたの? もっと早く戻ってくると思ったのに‥‥‥」
 外套を外していた男の頬に、女は白い手を伸ばした。触れた肌のひんやりとした感触に、女は形のいい眉を顰めた。部屋の灯りが弱いためはっきりとはわからないが、こころなしか男の顔色もあまり良くないように見える。
「顔が冷たいわ。外套も少し湿っているし‥‥‥外に出たの? とにかくこっちへいらして、火にあたって下さい。」
 女に腕をとられ引かれるまま、男は暖炉の方へと向かった。先ほど女が座っていた向かいに置いてある、もうひとつの安楽椅子に身を沈めると、女が自分の椅子から膝掛けをとりあげ男の体にかけた。

「今、お茶をお煎れしますね。」
 椅子の傍から男の頭にそっと口づけると、女はそう言って離れていった。男の視界の端で、女の衣装の白い裾がふわりと舞って、離れていく。
 その後、しばらく黄金色の炎の暖かさに身を委ねているうちに部屋に香しい空気が漂い、やがて女の戻ってくる気配があった。

「ジャムカ、召し上がって。暖まるわ。」
「‥‥‥ああ。ありがとう、エーディン。」
 恋人に礼を言って、男―――ジャムカは差し出された香茶を受け取り、一口含んだ。ほのかな甘い香りと温かな感触が口の中に広がり、冷えた体に染み渡る。少し甘みと酸味があったのは、野苺か何かを煮詰めたものが入っているためなのだろうか。一口めを飲み下すと、彼はすぐに二口めを口にした。
「どちらにいらしたの? こんなに寒い日に、あなたが外に出るなんて。」
 エーディンはそう言いながら椅子の傍らに腰を下ろして、自分の分の香茶を口にした。暖炉の前には毛が長く上質な絨毯が敷いてあるため、直接座り込んでも充分に温かい。自分の足下に体を寄せるようにしているその姿に、ジャムカは手を伸ばして、恋人の波うった長い髪を撫でた。
「城外じゃない。‥‥‥露台でシレジア王子が笛を吹いていたから、それを聴いていた。」
「レヴィン様? 露台って‥‥‥雪が降っているのに?」
「雪が降っているからそうした、らしいな。」
 言って、もう再び香茶を啜る。エーディンは首を傾げてジャムカを見つめた。
「‥‥‥雪の中で演奏を?」
 不思議そうに訊ねてくる。やはり、普通は疑問に思うものらしい。彼自身が問いかけた時のレヴィンの答えを、ジャムカは簡単に聞かせることにした。
「雪の精に聴かせたかった、と言っていた。」

 エーディンはまた首を傾げた。「あなたみたいな事をおっしゃる方ね」と呟いて、くすりと笑う。ジャムカは小さく肩を竦め、エーディンの髪の一房を片手でいじりながら話を続けた。
「良い音楽を聴くと、雪は綺麗な形になれるそうだ。‥‥‥『だがシレジアでは雪は厄介者で、捧げられる歌も祈りもない。だから、自分が曲を奏でてやる』。そう言っていた。」
 エーディンはジャムカの言葉に耳を傾けながら、小さな匙を、ゆっくりと自分の香茶の中で動かしていた。彼の言葉について何か考えているらしく、無言のまま、くるくると香茶を混ぜている。しばらくその渦を見つめて、やがてぽつりと呟く。
「‥‥‥不思議な話。でも、あなたにとっては何でもない事なのかしらね?」
 そう言ってエーディンは顔を上げ、ジャムカを見つめて微笑んだ。
 ジャムカは少しのあいだ無言でその顔を見つめ返していたが、やがて立ち上がり、空になった香茶の器を手に部屋の奥の洋卓の方へと向かった。卓上では模様の描かれた象牙色の蝋燭が淡い光を投げかけている。そのすぐ傍に香茶の器を置くと彼は窓に歩み寄り、前に立って何気なく腕を組んだ。

 厚い硝子から、遮断しきれない冷気が伝わってくる。窓の縁は薄く積もった雪に縁取られ、硝子の表面にはところどころに氷が花のような形に張り付いていた。その部分に手を伸ばし室内から指でなぞると、曇った窓には指の跡ができた。
 視線を窓の向こうにやる。外は暗闇に覆われていた。ジャムカ達のいる部屋の灯を受けて、暗い中を雪がちらちらと光りながら舞い落ちていく。これが一階の窓であったら、雪明かりでぼんやりと外が見えたかもしれない。
 じっと外を見つめていたジャムカの肩に、柔らかな感触があった。「風邪をひかないで下さいね」という声で振り向くと、エーディンの白い顔と、自分の肩にかけられた膝掛けが目に入った。
「窓際は、冷えますから。」
 小さく首を傾げて、微笑む恋人の白い額に軽く口づけてから、彼は再び窓の外を眺めやった。

「どんな曲を聴かせて頂いたの?」
 ジャムカに体を寄せて、エーディンが訊ねる。ジャムカはちらりとその顔を見たが、すぐに窓の外に視線を戻した。
「知らない曲だ。だが、童謡のようなものに思えたな。素朴で、優し気な‥‥‥。」
「そう。きっと、綺麗な曲だったのね。」
「‥‥‥。」
 エーディンに話しながら、ジャムカはその音色と自分の見た景色とを思い出していた。
 雲の切れ目からのぞく僅かな陽の光。雪明かりで薄暗い銀色に輝く世界。澄んだ笛の音が遠く響き渡り、優し気な旋律にのって雪影が舞い、地上へと降りていく。
 それはこの地を訪れるまで、彼が一度も目にした事のない光景であった。薄暗い空の下、柔らかな白い光に包まれた中を数多の白い華が降り、世界が白銀に覆われる。記憶にある筈もない光景に、流れるのも彼の聞き知らぬ曲である。
 しかしその素朴な旋律が感じさせる奇妙な懐かしさが、ジャムカに慣れぬ寒さをいっとき忘れさせ、目の前の見知らぬ景色への不思議な憧憬の念を抱かせる。雪の精に音楽を聴かせるのだと言った、奇妙な男の奏でる笛の音。雪の「精」と聞いたからといって、精霊の住まうといわれた祖国の森深い景色を思い出すのは唐突だし、安易に過ぎる。だがレヴィンがその奏でる笛の音に込めていた「六花」への情愛は、抑えていた懐郷の想いに働きかけるのに充分なものであったのだろうか。
 
 ―――馬鹿馬鹿しい。
 ジャムカは大きく息をついた。窓の外にぼんやりと視線を送っていた目を閉じ、開いてもう一度、外を見る。相変わらず、暗い中にただただ雪が降り続いているばかりだ。
「どうしたの?」
 エーディンがジャムカの顔を覗き込む。ちらりと視線をやると、邪気のない眼差しに不思議そうに見つめられているのがわかって、ジャムカは僅かに悩んでから躊躇いがちに口を開いた。
「さっきの話を聞いたせいか‥‥‥」
 自分が考えたことをなんと言って伝えればいいのかわからず、ジャムカは話し始めた後も、言葉の選び方に少し悩んだ。
「‥‥‥故郷の事を思い出した。雪など無縁の国なのに。」
 ジャムカは苦笑を漏らした。適当な言葉が見つからず、結局ただ事実だけを述べたものの、口にしてみると改めて「くだらない」と思う。どれほど共感したことがあったとしても、目の前にあるのは厳しい寒さに凍てついた白銀の大地で、緑に覆われた南の国であるヴェルダンとは似ても似つかない景色なのである。
「疲れているのかな。」

 エーディンは黙って彼の顔を見つめた。少しのあいだ無言で何か考え込んでいるようであったが、やがて顔を伏せて、言った。
「‥‥‥別に変だとは思わないわ。あなたはいつもそうだもの。」
 呟くように語りながら、エーディンはジャムカの肩に頭をもたれかける。
「道端の林の鳥の声に、木漏れ日の眩しさに。足下の土の温もりに、澄んだ水の煌めきにも‥‥‥ほんの僅かでも記憶と似たものを感じれば、いつでも貴方は故郷に想いを馳せる‥‥‥」
 たとえそれが無意識の事であっても、と、エーディンは言葉の最後に付け加えた。
 ジャムカがエーディンを見る。口を開きかけたが、否定する言葉も問いかける言葉も思い浮かばず、結局彼は無言のまま窓の外に視線を戻した。
 黙り込んだまま窓の外を見つめる恋人の横顔を、エーディンは眺めやった。しばらく沈黙は続いたが、やがてエーディンがぽつりと問いかけた。
「ねえ、ジャムカ。後悔している? ‥‥‥ここまで来た事。」

 ジャムカは眉を顰めて、エーディンの方を向いた。だが彼が目を合わせようとした途端、エーディンは僅かにうつむいて、彼の視線を避けた。怪訝な顔でジャムカは見つめ続けたが、エーディンは顔を上げようとしない。
 少しの間そんな様子を無言で眺めていたが、どうも見られたくないらしいとわかると、ジャムカは顔を見ようとするのをやめた。
 少し考えた後に、あっさりと答える。
「否。‥‥‥必要があったから君達と共にここまで来た、それだけだ。」
 エーディンが顔を上げ、無言で問いかけるような眼差しを向ける。その表情を見、更に言葉が必要らしいことを悟って、ジャムカは続けた。
「もし君が気に病んでいるなら、それは無用の事だ。俺は自分の目で、何が起きているのか確かめなくてはいけないからな。‥‥‥仮に、君のことがここにいる理由だとしても」
 言葉を切って、ジャムカはエーディンの瞳の奥を覗き込んだ。
「―――たとえそれが君の『ため』であったとしても、決して君の『せい』ではない。‥‥‥忘れるな。」
 エーディンは顔を伏せ、無言のままジャムカの服の袖を軽く掴んだ。
 ジャムカの方からは見えないその口元から、ありがとう と言う小さな声が聞こえた。

 ジャムカは少しの間、エーディンの頭に手をやって髪を撫でていた。それが心地良いのか、エーディンは彼に軽く寄りかかるように身を委ねている。薄暗い室内で、金の髪が灯りをうけて時折きらきらと光った。ジャムカが小さな笑みを口の端に浮かべ、その髪を何とはなしにいじっていると、エーディンが動かぬままで口を開いた。
「帰りたい? ジャムカ。」
 ジャムカはエーディンの髪をいじっていた手を止め、少しの間考え込んだ。
「否‥‥‥といえば嘘になるな。」
 短く答えると、それ以上は何も言わない。エーディンの方も、「帰る」ということについて、帰れるだろうかとか、いつのことになるのかとかは話そうとはしなかった。
 エーディンの問いかけはぽつりぽつりと続いた。
「あなたの故郷に、雪景色を見たことのある人はどれくらいいるかしら‥‥?」
「そもそも国を出る者がそれほど多くない。こんな景色は、皆想像もつかないだろうな。」
 既に暗くなり過ぎて景色などほとんど見えていないにも関わらず、ジャムカはつい窓の外に目をやった。今もなお、部屋の灯りを受けながら、降り続く雪はちらちらと光って窓を上から下へ横切っていく。くすりという小さな笑い声が聞こえて、ジャムカが手をやっていた下で金の髪が小さく揺れた。
「帰ったら、この雪のことをなんと話すの? ジャムカ。」
 訊ねられて、ジャムカは再びエーディンの方に視線を戻した。視界に入った金の髪を再び手でいじると、きらきらと小さく光らせてやる。その様子を眺めながら、ジャムカはしばらく返す言葉について考えこんだ。

「‥‥‥白く冷たい、見知らぬ精霊が毎日のように踊っていた、とでも言うさ。」
 ジャムカの返事に、エーディンがまたくすくすと笑う。その笑い声に、ジャムカも小さく笑い返した。自分の肩にかけられた膝掛けを片腕分だけ広げ、今度はエーディンの身体ごと包んでみせる。膝掛けとジャムカの腕とに包まれる形になって、エーディンはさらにもう一度楽しそうに笑った。

 二人が側にたたずむ氷の模様が描かれた窓と厚い壁の向こうでは、暗闇の中をなおも沢山の雪が降り続いていた。



END.


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