辺りにはひんやりとした、乾いた空気が漂っていた。

 昼間だというのに、人の気配の無い廊下は奥を暗がりに隠され、陰鬱な表情を見せている。
 まっすぐに伸びた絨毯は色調こそ抑えてあるものの、光が射せばその色は鮮やかに照り映えて廊下を華やがせたであろう。しかし陽が低く雲に隠されていたこの日、その色は暗さばかりが目立ち、施された装飾も陰りを増すばかりであるようだった。
 壁に飾られた絵画や彫像は暗さにその表情を隠され、柱に彫り込まれた装飾は複雑な影を傍らに落としている。柱の上端の飾りは重々しく、天井の模様は影に隠れてほとんど見えない。城内を飾る物の全ては、本来の目的とはおそらく反対に、辺りの陰鬱さを一層際立たせていた。
 否、この日ばかりではない。厚い硝子に閉ざされた窓は、それでも外界の冷気を完全に断ち切ることはできず、廊下は少しずつ寒さに侵されていく。たとえ晴れた日であっても多くの者は部屋に閉じこもり、火を炊いた暖炉の前でお茶を飲みながら一日を過ごしたいと考える。仕事やその他の用事が無い限り、わざわざ寒い中に出て行こうと思うものは、少々の変わり者を除いてはいない。シレジアの長い冬、それもこの日のように雪の降る時には、たとえ暖房を効かせた城内であっても寒さが身にしみる時なのであった。
 一方で、部屋に閉じこもっていても寒さに耐えきれず、体を動かしに外へ繰り出すものもいる。北国の寒さに慣れたシレジア人であれば滅多にないことであったが、彼は外国人であった。それも、冬はあっても雪など無縁の、大陸の最南の生まれである。
 ヴェルダン育ちの身には、この厳しい寒さにはなかなか慣れられそうにない―――と、ジャムカは思った。

 火を焚き始めたばかりの暖炉では、熱が行き渡るのにかなりひまがかかる。部屋が暖まるまでの少しの時間すら待ちきれず、彼は部屋を出たのだった。しかし、訓練場でしばらく打ち込みを続けるうちに身体は暖まったものの、時間が経てばそれも冷めてしまう。部屋へ戻る間にも、次第に彼の手足は冷たくなっていった。かなりの厚着をしてきた筈なのだが、元々寒さに弱い身にはそれでも不足であったらしい。
  腕にかけて持っていた外套を、空いていた手で軽く握りしめる。屋内であるから流石に使わないつもりでいたが、そんな事を言っている場合ではないかもしれない。今は誰も通らないようであるから、部屋に戻るまで羽織っていこうか。歩きながらそんなことを考えているうちに、彼はやがて、暗い廊下を仄かな光が照らし出している一角にたどり着いた。

 どうやら、露台の入り口から陽光が差し込んでいるらしい。
 たとえ雪の曇り空に隠された弱々しい光であっても、冬のシレジアで陽が出ている時間は短く、陽光は貴重である。冷気を防ぎにくいにも関わらず硝子の広い扉で露台への出入り口が作られているのは、その弱い光をできる限り取り込もうとした為なのだろうか。前に立つと、厚い硝子を通して、露台一面に薄く雪のつもっている様子が見て取れた。
 この日の雪は、この地方としてはさほど多くないようだった。しかし、薄暗い灰色の空を、数多の白いものが音も無く上から下へ横切っていく様は、その光景に慣れないジャムカの目には、不思議なもののように映る。雪の日など、この地で過ごす冬には珍しくもなんともない。しかし部屋で休んでいる時など、ふとした瞬間に窓の外に目をやると、しばしば彼は時を忘れてその景色を見つめてしまうのだった。
 この時も、ジャムカは寒さを忘れて、少しの間硝子の向こうの景色に見入っていた。そしてそんな彼の耳に、やがて、とある優し気な旋律が流れ込んできたのであった。

 気のせいか、と一瞬彼は訝ったが、意識をそちらに集中すると、その旋律は次第にはっきりと聞こえるようになった。どうやら、笛の音らしい。そして、その元を辿っていくと、ジャムカは露台に一つの人影を見つけた。
 この雪の中を、わざわざ露台に出て笛を奏でている男がいる。わずかな張り出しが雪よけになるとはいえ、吹き込む風は堪えるに違いない。何を好き好んで、とジャムカは不審に思ったが、流れてくるその笛の音色は澄んでいて心地よく、どこか懐かしいような響きがあって、聴き終えずに立ち去るには惜しいような気を起こさせた。
 演奏の調子には、覚えがあった。程なく笛の主に思い当たり、やがて音色が途絶えると、彼は外套を羽織って露台へ出た。
 何故か、黙って立ち去るのも無粋なことのように思われたのだった。


 戸を開けた途端吹き付けてきた冷気に、ジャムカは、開きかけた口を閉ざしてしまった。
 わずかに口を開けただけなのに、声を出そうと息を吸い込んだだけで、喉に触れた冷気に咽せそうになる。外套の上からも染み通るような寒さに少しでも慣れようと、先ほどの人影のことも忘れて、しばらく身動きもできなかった。
「? ‥‥‥これはこれは。この雪の中を、珍しい客だな。」
 何か声をかけようとして出てきた筈であったのに、寒さを堪えているうちに、逆に話しかけられてしまった。ジャムカは応えようと振り返ったが、その時に頬を撫でたわずかな冷気に、また眉を顰めた。空気の冷たさに僅かながら慣れたところで、ようやく声を出す。
「‥‥‥雪空の下で笛を吹いている男程珍しくはないと思うが。」
 もともと「愛想が無い」と言われがちの彼であったが、寒さのせいか、普段以上に素っ気ない言葉しか思い浮かばなくなっていたようだ。笛の音に惹かれて話をしにやってきた筈であったが、身にしみる寒さの前ではどうでもよくなってしまう。だが、自分からやってきた以上、すぐに城の中に戻る訳にもいかなかった。ばかばかしいほど些細なことだが、ジャムカは本気で後悔した。
 笛を吹いていた人影は、そんな彼の様子に気づいているのか、くっくっと笑って言った。
「雪曇りの空の下は、あんたには尚更辛いだろうな。戻ったら鏡を見るがいいさ、血の気が失せたような顔色じゃないか。」
 相手の言い草には憮然としたものの、ジャムカには反論できなかった。せめて強がってみるかと、彼はつとめて不機嫌さを押し隠して答えた。
「‥‥‥南方育ちなんでな。どこかのシレジア王子のようにはいかない。」
「ああ。この程度の雪は、冬のシレジアなら軽いものさ。‥‥‥まあ、確かに、わざわざそれを見に行く奴は変わり者だろうが。」
 あっさりとした返事で、間接的に自分を「変わり者」と評したシレジア王子―――レヴィンは、手にした笛を握り直して、薄暗い雪空を眺めやった。

 少しの間二人が黙り込んでいると、深い静寂が流れた。身動きせずにじっとその場に立っていると、雪の降る音さえ聞こえてきそうな気がする。寒さの中で、無意識の内に耳を澄ませている自分に気がついて、ジャムカは軽く頭を振った。
「‥‥‥その変わり者は、わざわざ雪の中で笛を吹くのが趣味か?」
「さあ‥‥‥当たらずとも遠からず‥‥‥ってところかな。」
 くすりと笑って言葉を切ると、レヴィンは言葉を続けた。

「降ってくる雪を、よく見てみな。‥‥‥綺麗なもんだ。」
 ジャムカは訝し気に眉を顰めたが、無言で空中に手を伸ばし、雪の降り掛かったその手を自分の目の前に翳した。
 様々な形の小さな結晶が、手の上で煌めいている。枝の多いもの、少ないもの、複雑な物、単純な物―――どれも様々な、小さな六角の花が咲いたような形。すぐに融けてしまうであろうと思われたそれは、極寒の大気のせいか、あるいはジャムカの手も冷えきってしまっているせいであったのか、少しの間眺めていられるくらいには形を留めていた。
「『六花』さ。雪の花だ。大抵は積もればわからなくなっちまうが、山の中へ入れば―――結晶のまま降り積もってる。この上ない寒さのせいで、な。なかなか見られないぜ? もっとも、寒くてあまり長くはいられないけどな。」
 くすりと笑いながら、レヴィンはそう話した。ジャムカが無言のまま翳した手を下ろすと、更に話は続いた。
「小さくてよくわからないだろうが、みな形が違うそうだ。綺麗な形のもあれば、そうならないのもある。‥‥‥空気が汚れていると、綺麗な形にならないって聞いたな。」
「‥‥‥それが、あんたが笛を吹くことに関係があるのか?」
 ジャムカの愛想の無い問いかけに、レヴィンは苦笑した。手元の笛が冷えきってしまったのか、ゆっくりと手でさすりながら、彼は答えた。
「ああ。何故、笛を吹いていたか? ‥‥‥聴かせるためさ、六花の精に。」

 ジャムカは、再び怪訝そうに眉を顰めた。レヴィンはなんでもない様子で、手元の笛を口元に運んで、すうすうと音を立てている。息を吹き込んで、笛を暖めているらしい。
「‥‥‥何の精だって?」
「六花。雪の精さ。」
 ジャムカの問いに、レヴィンは笑って答えた。
「あんたは知ってるだろう。風にも土にも、火にも水にも精霊がいる。木や草にも‥‥‥雪の精がいて何の不思議がある?」
 当然のような物言いをしながら、レヴィンは軽く頬を掻いた。手を下ろし、肩をすくめてみせる。
「シレジアでは、雪は厄介者さ。降り過ぎるからな。‥‥‥だが、雪の精だって良い音楽の一つくらい聴きたいだろうさ。」
 ジャムカはすぐには答えなかった。笛を暖めていた筈の男は、なぜか一向に曲を奏でようとはしない。暗い空をみつめ、笛を握りしめたまま、薄暗がりを上から下へ通り過ぎて行く白い小さな花に、無言で視線を注いでいる。
「だから、あんたが笛を聴かせようと?」
 やがて、ジャムカは尋ねた。レヴィンはすぐに返事をする代わりに、くすりと笑ってみせた。
「良い曲を聴かせると、六花も綺麗な形になれる。良い音楽、祈り、それに歌。どれも精霊が大好きなものじゃないか。だが、雪にはそんなものは滅多に捧げられない。」
 そう言って、目を伏せ、手元の笛をそっと撫でてみせる。
「だから、良い音楽を奏でるのは喜ばれる。綺麗な曲を聴くと、綺麗な六花が咲く。‥‥‥勿論、よほど気の向いた時にしかやらないが。どうせ降る雪なら、俺は綺麗な方がいい。」

 ジャムカは無言で、空に視線を移した。宙に手を伸ばし、やがて、雪の降り掛かってきた手を再び目の前に翳す。再び、手のひらに不規則な煌めきを見せる白い結晶を見つけたが、眺めるうちにやがてそれは消えていった。
 手の平から目を離すと、冷えきった両手を暖めるようにすり合わせる。
「ここは、冷えるな。」
「‥‥‥。」
 レヴィンがちらりと彼の方を見た。が、特に答えることも思いつかなかったのか、すぐに視線を宙に戻す。ジャムカはもう一度、口を開いた。
「このまま中へ戻るというのも、こんな寒い場所へ出てきた甲斐がない。‥‥‥一曲遣ってくれないか。」
 レヴィンがまた、ジャムカを見た。少しの間何も答えなかったが、やがて、口元に小さな笑みを浮かべてみせる。
「高いぜ、お客さん? ‥‥‥と言いたい所だが、いいさ。聴かせてやるよ。」
「気前がいいな。」
「自分の演奏を聞いて寄ってきた客を追い払うのも野暮な話だ。それに‥‥‥」
 言葉の途中で黙り込んだのを受けて、ジャムカは訝し気にレヴィンを見た。レヴィンはちらりと彼のほうを見て、黙って軽く頭を掻いた。
「さっきの話だ。‥‥‥あんたは、笑わず聞いてくれたからな。」
 そう言って、照れたように笑った。

 ジャムカが何か言うよりも早く、レヴィンが「何の曲がいい?」と訊ねる。ジャムカは肩をすくめた。
「なんでもいい。さっきと同じ曲でも‥‥‥あんたが、雪の精に聴かせたいものを。」
「了解。」
 少し笑って、レヴィンは笛を口に当てた。

 白銀の世界に、歌うような笛の音が響く。
 雲の切れ目から覗く陽を受けて、雪に覆われた地上が輝き、辺りは柔らかな光に包まれている。仄かな光を背に、雪影が宙を舞う。目の前に広がる光景は、響き渡る繊細な旋律に合わせて、陽光の中で精霊が舞い踊った軌跡であるかのようにも見えた。
 ジャムカはじっと笛の音に聴き入った。童歌のようなものだろうか、素朴な調べが彼の中に流れ込んでくる。先ほどとは違う曲のようだが、同質の懐かしい響きがあり、優し気な旋律が耳に心地よかった。

 曲が終わるまでのひととき、澄んだ音色を耳に受けながら、ジャムカは寒さを忘れて目の前の景色を見つめていた。



Continued on page 2.



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