周りを見回せば、どこを見ても怪我人ばかり。目の前に広がるそんな光景に、彼は小さく溜め息をついた。

 軽傷で、自分で傷薬を使って治療をしているものもいれば、救護班の懸命の介護でようやく一命をとりとめた重傷者もいる。自身も傷を負いながら、他人の治療に駆け回っている者もいた。いずれにせよ、大方の者が多かれ少なかれ負傷していて、軍で生き残った者全てに重い疲労がのしかかっている。それが、今の状況であった。
 彼、ヨシュアも例外ではない。全身にまとわりつく疲労感に見回りをするのも億劫になって、歩みは緩慢なものになる。傭兵暮らしが長く戦慣れした身であっても、ここ最近の戦で働きづめとあって、流石に疲労が重なったようである。
 彼は命に関わる程の傷は負わずに済んだものの、負傷した腕の手当には満足な時間を割くことができなかった。面倒が少なく、傷が早く癒え、効率が良いといえば間違いなく杖で治癒の術を施してもらうことであったが、シスターや司祭、賢者など杖を使える者は重傷者の世話に負われ、とても全ての怪我人にまで手が回らないのが現状である。必然的に、彼の怪我の治療は後回しにされていた。
「ま、そのうちに落ち着くだろう。」
 ヨシュアはそう独り言を言って、火傷で鈍い痛みのある左腕を眺めた。
 彼の部隊が向かっていった先の一軍には複数の魔道士がいた。間合いの外から襲ってきた炎の一つを彼は完全にかわしきれず、その時に負った傷であった。利き腕や足ではなかったのが幸いといえば幸いだったかもしれない。
 応急処置は的確で回復が進んではいたが、治りきらないものを放っておくのは気分の良いものではない。しかし、戦闘は概ね収束しており、軍内には次の目的地であるルネスへ向かう前に充分な休養をとるように、との指示がされていた。重い傷でも、癒すのに充分な時間をとることができる。忙しく動き回っている救護隊も、いずれは手が空き始めるだろう。
 何より今は、彼は傷の治療というより、単純な休息が欲しかった。体が重い。断続的に休みをとる程度では疲労が抜けないような気がする。
 ジャハナへ到着し、グラドの主力に包囲されて追われる羽目になり、ようやくこの砂漠の端まで来て敵軍を撃破した。短い期間に、色々なことが起こりすぎたような気がする。ただでさえその間軍全体が休息らしい休息をとっていない上、彼自身のことだけを見ても随分様々な事件があって、起きた変化は大きかった。
 自分の経験したその一つ一つのことをさほど気にしてはいないつもりであったが、自分が平気だと思い込んでいても休息は必要なのかもしれないな、とヨシュアは思った。
「やたら疲れた気がするのは、こいつの件も大きいんだろうが‥‥」
 苦笑して、腰に手をやる。冷たい手触りがあって、彼はごく最近帯びるようになったばかりのその剣の柄を軽く握りしめ、手を離した。
「ようやく少しは落ち着けるってのに、どうも調子がわりいな。今日のツキは、と‥‥‥」
 呟いて今度はコインを取り出し、宙に放る。普段であればそのまま落ちて来たコインを左手の甲で受け止めるのだが、流石に火傷をしたままの左手に障るような真似はしたくなかったため、右手を振って落ちてきたコインを宙で掴んで手を開かぬままそっと左手の甲に重ねた。右手を開いて静かにコインを手の甲に乗せ、手をそっと除ける。

「‥‥‥表か。」
「ヨシュア様。」
 コインの向きを確かめたとき、澄んだ声に突然名を呼ばれて、ヨシュアは振り返った。淡い金の髪に青い目のシスターが、彼の視線の先に立っている。
「ナターシャ。いたのか。」
 気配に気づかなかったことを自分でも意外に思いながら、彼はコインをしまってナターシャの方へ向き直った。治癒の術に長けた彼女はよほど仕事に追われているらしく、纏う白い法衣は血と泥で汚れていた。しかし、ヨシュアにはその姿よりも曇りがちな表情の方が気になった。杖を握る手にも力が入っていて、何故だか常よりも必死な様子に見える。
「ヨシュア様。あなたも怪我をしてらっしゃるのでしょう? 手当をしますので、お見せ下さい。」
 訝しく思ううちに急にそう問われて、ヨシュアは少し戸惑ったように答えた。
「あ、ああ。‥‥だが、俺の傷はそれほど大したことはない。他の連中はいいのか?」
「‥‥‥。あなたの手当を済ませたら、すぐそちらへ戻ります。」
 一瞬の間を空けて、ナターシャはそう言った。
 ヨシュアは僅かに眉を顰めた。すぐに戻る、と言ったナターシャの顔が、また曇ったような気がする。だが、忙しい筈の恋人がわざわざ手当をしに来たというなら、あまり時間を無駄にする訳にはいかない。「なら、頼む」と答え、すぐ側の木陰まで行って腰を下ろした。
 傍にナターシャが屈んだのを見て、「とりあえず、これだな」と袖をまくった左腕を差し出す。腕にひろがる火傷を見てナターシャは眉を顰めたが、すぐに杖を傷に向けて術を施し始めた。
「‥‥ナターシャ。大丈夫か?」
 ヨシュアが治療の終わる間際に声をかけると、ナターシャは顔だけ上げて訝し気に首を傾げてみせた。彼は言葉を続けた。
「疲れているようだ。治療に忙しいのはわかるが、あんたも少し休息をとったほうがいいんじゃないのか?」
 彼の言葉に、ナターシャは困惑の表情を浮かべてうつむいた。術を終えた杖を下げ、膝の上で両手で軽く握りしめる。
「‥‥疲れているのは私だけではありません。救護隊の手も不足しているのに私が休めば、それだけ負傷者の手当が遅れます。」
 それに、と、ナターシャは言葉を続けた。
「グラドの人々がしたことを思えば、私がこの戦いで傷を追った人々の為に最善を尽くさなくてはいけないのは、当然の事です。」
「‥‥‥ああ。それを気にして浮かない顔をしているのか?」
 ヨシュアが訊ねると、ナターシャははっとしたように黙り込んでしまう。

 この純朴なシスターは、負傷者の治療や励ましなどにいつも懸命で、常にその可憐な笑顔を絶やす事はない。疲れているというなら、むしろそれを隠す為に余計に笑みを絶やさない様必死にになる、そんな性格であった。それが悩んだような表情を見せている、その事がヨシュアの気にかかる。
 今の言葉から、グラド出身である彼女が故郷の兵士達との戦に加わらなくてはならないことを悩んでいるのだろうか、と思いもした。ナターシャの方でも、そう思われたことに気付いているに違いない。黙り込んでしまった彼女にまた声をかけようとしたとき、ナターシャはそれを避けるようにその場に立ち上がった。
「‥‥いいえ。今、自分のしていることに迷いはありません。」
 きっぱりと言って、ナターシャが立ち去ろうとする。ヨシュアは慌てて腕を伸ばし、彼女の手を掴んだ。ナターシャが困惑したように彼の方を向くのを見て、ヨシュアは苦笑した。
「まあ、待て。そう逃げようとするな。」
「‥‥逃げてなど‥‥」
「逃げてなどいない? なら、少し賭けにつき合え」
 やはり困惑したままのナターシャをよそに、ヨシュアは素早くコインをとりだし、宙に放った。治療されたばかりの左手の甲にコインを落として、右手でそれを覆ったままナターシャに問いかける。
「表か、裏か。どっちだ?」
 ナターシャは少しの間黙り込んだ。だが、こんな時の半ば強引なやり方はヨシュアの常套手段であった。逆らっても無駄だと思ったのか、やがて素直に答える。
「‥‥‥では、裏。」
 ナターシャの返事に、ヨシュアは無造作に右手を除けてみせた。
「表。俺の勝ちだな。一つ俺の言うことを聞け。」
「‥‥‥」
 返事をしないナターシャに構わず、ヨシュアは話を続けた。
「今からする仕事が一つ片付いたら、今日は役目を切り上げて俺のもとへ来い。夕刻までにな。あんたにも休息が必要だろうし、話もある。」
 ナターシャはなおも何も言わなかったが、ヨシュアに「いいな?」と念を押されると、観念したように頷いた。

 すぐに立ち去っていく彼女の後ろ姿を眺めながら、ヨシュアは手の中のコインをなんとはなしにもてあそんでいた。この場は黙って立ち去るのを許したものの、いちいち沈んだ表情を見せた恋人のことが、どうも気になって仕方が無い。
「コインは表。‥‥‥この場では婚約者殿にあっさりと振られちまったが、この後少しはツキが回ってくるのかねえ?」
 溜め息とともに呟いて、彼はコインを再び懐にしまった。


 ヨシュアとのやりとりの後、ナターシャは救護に戻ってからも、ふと手が空いた瞬間などに彼に視線を送るのを止められずにいた。こんなことではいけないと思いながら、目の前の負傷者に懸命に手当を施すも、自分の患者の命に別状がないとわかって安心すると同時に、ずっと抱えていた不安に意識が戻っていってしまう。
 今もまた一人の負傷兵の手当てを終えて、彼女は少し離れた先を独り歩く彼を見た。先ほど彼女自身の手で怪我の治療を終えたばかりで、多少の疲れは見えるものの他は特に普段と変わらない様子のヨシュアであったが、ふと彼は左手を腰に提げる剣に伸ばした。鞘を軽く掴むと、目を細め、一瞬だけその剣に視線を向ける。刹那のことながら、ナターシャはその一瞬の表情に胸を痛めている。彼が触れた剣がジャハナ王国に伝わる双聖器のひとつ、氷剣とよばれる剣であることを彼女は聞いていた。
 先ほど彼女がヨシュアに会いにいったのも、実際は彼がその剣に触れた様子が気になって側へ行ったのだった。だが、側へ行ったはいいものの、何と話し掛けたらいいものかわからない。躊躇う内にヨシュアが腕を負傷しているらしいことに気付き、その手当てを口実に声をかけられたようなものであった。そして結局彼の様子がおかしいことについて上手く訊ねることができず、戸惑っている間に無用の誤解をさせ、彼に心配までかけてしまったものらしい。
 グラドを相手に戦っていたから浮かない顔をしていたのか、と彼は言った。この事に限ったことではないが、ヨシュアは以前から、ナターシャの側で彼女のことを気にかけているふしが強かった。


 ーーーその日も、ナターシャは負傷者の救護に追われていた。慌ただしく行き交う足音に囲まれながら、あちこちの怪我人の為に彼女は駆け回った。痛みに呻く者、声も出せない者、助けを求めてすがる者、目につく負傷者全ての為にナターシャはできる限りの治療を施し、励ましの声をかけた。無事に一命をとりとめた多くの者には、心から喜んで祝福の言葉を贈る。やがて事態が落ち着き始め、大勢の怪我人が彼女の献身的な介護に感謝するころ、ナターシャは目の前の負傷者の手当てを終えてふと、辺りに目をやった。

 一息ついて視線を向けたその先には、戦死者の遺体の処理をしている一隊が居た。保管は困難であると判断されたのか、敵兵の亡骸をまとめて火葬にしているところであったらしい。燃料代わりの枯れ木や干し草が積み上げられるその端々にグラド風の鎧や兜の一部が見え隠れしているのに気付いて、ナターシャは心に小さな棘が刺さったような気がした。彼女が祖国で勤めていた際に、時折訪れる、祈りを捧げに来た兵士達の姿が黒ずんだ鎧兜に重なる。その度に直前まで自身の看ていた患者に笑いかけていた筈の顔を、沈む気持ちに曇らせてしまう、そのことに彼女はすぐには気付かなかった。  その時、やりきれない思いで弔いの場から目をはなせずにいたナターシャの視界を、突然何かが遮ったのだった。

 ナターシャは驚いて、火葬場と自分の顔との間に割って入ったものがなんなのか確かめようとした。
 見えていたのは、人間の手の平だった。武器を手にする、鍛えられた男の手だ。治療の際屈んだままでいた彼女が火葬場に視線を送るのを見て、何者かが近づいて後ろから手でその視界を遮ったものらしかった。
 困惑するうちに、「ナターシャ」 とからかう様な声で名を呼ばれた。すぐにそれが誰であったのか悟ってナターシャが振り向こうとすると、声の主はそれを制止して、耳元に顔を寄せて囁いた。

「ゆっくり、後ろを向け。体ごとな。」
 笑みを含んだ声に言われて、ナターシャは戸惑いながらも、その言葉に従った。体の向きを変え、上を見上げると、彼女の顔を見下ろして笑いかけるヨシュアが居た。完全に自分の方を向いたのを確かめて、ヨシュアは口を開いた。
「向いたな。それじゃ、向こうに何が見える?」
 言って、彼はその場を退いた。視界がひらけたナターシャの目に、新たな負傷者の姿が映った。
「何が見えるか、わかるな? ‥‥‥さて。あんたの仕事は?」
 困惑しきりのナターシャに、ヨシュアはからかうように問いかけた。やがてその意を察して、ナターシャは手にしていた治癒の杖を握りしめた。
「‥‥‥負傷者の方々の手当て、です。」
 彼女の返事に満足したように、ヨシュアはくすりと笑った。
「そうだな。‥‥‥さあ、行ってこい、ナターシャ。」
 言って、彼はナターシャに道を譲った。その場に急いで立ち上がり、ナターシャは彼の方を見た。
「‥‥‥ありがとうございます。ヨシュア様。」
 ナターシャの礼に、ヨシュアはさも何も知らない、といった顔で応えた。
「何のことだ? ほら、向こうで怪我人があんたを待ってるぞ。人手がいるようなら後で呼ぶがいい。」
 またくすりと笑って、ヨシュアは先へ進む様、ナターシャに促した。ナターシャは頭を下げて、急いでその負傷者の元へと駆けていった。

 いつも側で彼女を見守っていたその男は、ナターシャがグラド兵の亡骸を見て心を痛めたのにもすぐに気付いたに違いない。何事かを口にだして励ます訳でもなく、慰める訳でもなかったが、無言で背中を押すかのような彼のさりげない厚意がナターシャを力づけた。
 気付けばいつでもヨシュアは彼女を側で守っていた。ナターシャの方もやがて彼の側にいるようになった。思いが通じ合ってからそれほど長い時間が経っている訳ではないが、少なくともナターシャは彼を見ていて、今の彼が時折見せる異変に気付いていた。だが、ヨシュアの方は気付かれていることを知ってか知らずか、あるいは自身に表に出るような異変があると気付いてすらいないのか、今の所ナターシャの前で振る舞い方に変化を見せることは無い。ナターシャに限らず、他人にそれを見せてはいないのだろう。しかし、それでも自分が気付いてしまったという事実に、ナターシャは不安を感じる。そしてヨシュアはそんな彼女には気付かず、一方的に自分が彼女を気遣っている。

 ナターシャが重い気分でいると、ふと彼女の前で一人の重傷者がうめき声をあげた。ナターシャははっとして、彼女の患者を見た。
 彼女には彼女の仕事があり、今は考え事をしている場合ではない。先ほどヨシュアとした約束のとおり、役目を一段落終えて彼に会いにいけば済む事だ。そう思い直し、ナターシャは目前の救護に集中しようとした。
 しかし、手当てのかいあって無事に一命をとりとめたその患者を安心させるため、彼女がいつものように「大丈夫ですよ」と笑いかけてみせるには、かなりの努力を必要としたのであった。



Continued on page 2.



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