天使の歌声


 アイラが森の奥に入ったのは、自分の夫から逃げるためだった。なぜそんな羽目になったかといえば、シグルド公子のはた迷惑な企画のせいだ。おかげで毎日レックスの「一緒に歌おう♪」攻撃を受けて、アイラは心底迷惑していた。
 日ごろ世話になっているラーナ王妃に、礼をかねて誕生日を祝うのはいい。だが、なぜ全員参加で歌か楽器を披露しなければならないのか、理解に苦しむ。自慢ではないが、アイラはその手のことが苦手である。むろん王女という身分柄、音楽は正式に習っていたことがある。習いはしたが、剣と違って、いくら努力してもまったく思い通りにならない音楽というものに、アイラはどうしても興味を持てなかったのである。


 風が通るたびに木漏れ日がゆらゆらと頭上で揺れる。シレジアの夏は概して涼しく過ごしやすいが、ここ数日は、馬鹿げた企画で盛り上がっているせいか、みょうに暑い日が続いていた。レックスを撒いたついでにしばらく涼んで行こう、とアイラは奥に向かってずんずん歩き始めた。ぶらぶら歩くということが、性格的にできないのである。


(静かだな…)
 アイラは、悪夢のような数日を思い浮かべて、この静けさを満喫した。気の毒に、ベオウルフなどはラケシス王女にヴァイオリンの猛特訓を受けさせられている。気の毒だとは思うが、あの神経に障る音は同情だけで耐えられるものではない。逆を言えば、あの音を間近で聞きながらなおも教え続けられるというのは、愛情のなせるわざということか。…いや、ラケシス王女の性格から考えるに、単なる不撓不屈の精神によるものかもしれない。ベオウルフこそいい迷惑だろう。いつもの傲岸な態度はどこへやら、食事のたびにげっそりとやつれた顔を見せては、どこか自棄になってビールを煽る姿は、城内の同情と微苦笑を誘っていた。
 だいたいにおいて、グランベルの人間というのは、あまり感性が細やかだとは言えないのではあるまいか。あんなに種種雑多な音の中でさらに音を主張するあたりに、傲岸な国柄がほの見えるような気がする。そういえばレヴィンも確か、この世の終わりのような顔をして「しばらく留守にするからな」と何処かへ姿をくらましたらしい。まっとうな神経の持ち主ならあんな中で歌おうなどとは思わないはずだ。


 道が開けた。一帯は伐採地らしく、陽射しがあふれている。アイラは踏み出しかけて、眩しさに目を瞬いた。視界が戻る前に、細い笛の音と――天使の歌声を聴いた。
 天使が切り株の上に片膝を抱えるようにして座り、羽繕いをしながら歌っている。
 ――そう見えたのは、目の錯覚だったのだろう。だが、それも無理はないと思うほど、光に溶けていきそうな歌声だったのだ。あまり聞き覚えのない素朴な旋律の、どこか懐かしく、胸の奥が切なくなるような…。


「…あれ、アイラさん」
 歌声が止んで、ごく普通の少年の声が自分を呼んだ。うすくそばかすの散った顔はよく見慣れた少年のものだ。
 アイラは思わず目をこすった。目だけではなく――耳も錯覚を起こしていたのだろうか?
 だが、少なくとも笛は錯覚ではなかったらしい。別の切り株に寄りかかるようにして地面に直接座っていた男が、口から笛を離してこちらを見た。
「…ええと。練習をしていたのか? 邪魔をしたのなら、帰るが」
 その場の一種静謐な雰囲気に、何と言えばいいのか困惑して、アイラが言うと、デューが屈託なく笑った。天使とは似ても似つかない、言葉にするなら「ニカッ」という感じの笑顔である。
「邪魔なんかじゃないよ。のんびりしてただけー。アイラさんも混ざる?」
「…いいのか?」
「だめなら誘ったりしないって。ねぇ、ジャムカ?」
「ああ」
 アイラはお言葉に甘えて混ざらせてもらうことにした。帰ってレックスにつかまってはせっかくの気分が台無しだ。空いている切り株にアイラも腰を掛ける。真っ青な空からふりそそぐ太陽の光は暑いが、森から風が吹いてくるので、アイラにはむしろ気持ちがよかった。緑の匂い、土の匂い、太陽の匂い…そのどれもが心地よく、確かにこんなところでなら音楽も悪くはない。
「…今の歌…」
「歌?」
「あ、いや、笛…ええと、例のやつでは、ジャムカは笛を吹くのか?」
「いや。キタラだ」
「えへへ、あのねアイラさん、ジャムカってばこう見えても楽器は得意なんだよ」
 デューが、自慢しているのかからかっているのかよくわからない口調で言った。しかし言われてみれば、例の企画を持ち出されたとき、厭そうな顔をしたメンバーの中にジャムカはいなかったように思う。…もっともこの男はたいてい無表情なのだが。てっきり自分と同類だと思っていただけに、意外というか…正直に言えば少々ショックでもあった。
「エーディンの伴奏を?」
 エーディンは歌を歌うと聞いていたからそう尋ねたのだが、否定の返事が返ってきた。
「いや」
「ここだけの話だけどさ、実はエーディンさんって音痴なんだよね。あ、ええと、あの、ちょぴっとだけだけど。あははは」
「…時々音が外れるだけだ」
 …今のは惚気なのだろうかと首を傾げながらジャムカの顔を見たが、いつも同様に無表情だったのでよくわからなかった。単に事実を述べただけかもしれない。デューを見ると、茶目っ気たっぷりに肩をすくめていた。
「たいした理由じゃない。二人とも知っている曲がなかったというだけなんだが」
 ジャムカはそう言って、再び笛を吹き始めた。細い横笛で、音色も軽くて細い感じがする。先ほどの旋律はヴェルダンの曲だったのか、と腑に落ちた。イザークの曲はもっと単調でもの悲しい響きがあるが、これは深い森の木漏れ日を連想させる。だが素朴な印象はどこか通じるものがあった。広大な自然と音楽とが深く結びついているからかもしれない。それを他国は蛮族と侮るのだろうが、アイラはアグストリアやシレジアと比べてもイザークが劣るとは思っていない。祖国が懐かしくなるような、胸を熱くさせる何かが、ジャムカの笛から伝わってきた。
「(あの笛もね、ジャムカの手作りなんだよ)」
 黙って聞き入っていると、デューが小声で教えてくれた。
 そういえばジャムカは手先が器用でもあるらしく、エーディンが嬉しそうに木彫りの小鳥や花を見せてくれたことがある。口と手の器用さというのは反比例するものなのかもしれない。(誰と比べたかはこのさい言わぬが花である。)
「…仲が良いのだな。前から思っていたのだが、どういう知り合いだったのだ?」
 アイラが小声で尋ねると、デューはきょとんと見返した。言わなかったっけ?という表情が、すぐにいたずらっぽい笑顔に変わる。そして切り株の上からぴょんと降りると、少し離れたところでこっちこっちと手をひらひらさせた。笛の邪魔をしたくないのだなと察してついていき、二人で木の陰に直接腰を下ろした。

「いちばん最初は、ジャムカの巾着を盗もうとしたんだ」
 よりによってジャムカを狙うなんて、おいらとしたことがドジだよね、と笑う。
「でもさ、森の中で昼寝してたら誰だって楽勝だと思うよね。なのにジャムカってば寝てるように見えても、油断なんかしてないんだもん。懐に忍ばせたとたんに手を掴まれて、睨まれたときは、おいら固まっちゃったよ」
 世の中には融通の利かないタイプがいる。被害に遭わなくても、そういうタイプはお目こぼしというものをしない。たとえどんな理由があっても情状酌量の余地なく役人に引き渡されておしまいだ。その手合いだと思って、デューは青くなったのだという。
 だが、ジャムカは、黙って役人に引き渡すことはせず、盗みの理由を尋ねた。今から思えば、王族の一員としては盗賊が横行するのが望ましいはずはなく、取り締まるよりむしろ盗賊になる原因のほうを追求すべきだという認識があったのだとわかるが、それを聞いて当時のデューは(ちょろいかも)と思った。融通の利かないタイプとは逆にお涙頂戴タイプというのもいる。後天的に身につけた演技力で、せいいっぱいしおらしく、デューは「実は母ちゃんが病気で…」と訴えた。
 だが、相手は甘くもなかった。デューの腕を掴んだまま立ち上がると、家へ連れて行けと言う。デューはさらに口先だけで誤魔化したが、そのたびに鋭く追求され、ついに音を上げて白状した。
 すると、相手は役人に引き渡すこともせず、半ば叱りつつ説教を始めた。盗みは良くないが、嘘は絶対にだめだ、という。
「今は軽い気持ちで嘘をついているのかもしれないが、嘘を重ねると、いずれ自分自身を信頼できなくなるぞ。人に軽蔑され、卑屈になれば、ますます嘘が酷くなる。気がついたときには誰にも相手をしてもらえない。そういう奴を屑という。そうなりたくないなら、こんなガキの時分から胸を張れないようなことはするんじゃない」
 そのときデューはジャムカの言うことなどちゃんと聞いてはいなかった。手を解放されるやいなや、付き合ってられないや、とばかりに駆け出した。背中に注がれる視線がうっとうしかったほどだ。
 けれど、それからさして経たない頃――
 デューは、ジャムカが言った言葉の一端を、身をもって知った。誰にも信じてもらえないこと、誰からも相手にされないこと……それは、ひもじい暮らしより、ずっと辛いことだ。ひとりでいる寂しさなんかより、もっとずっと…はるかに寂しい。
 そして気がついた。怒られるのではなく、叱られたのはあれが初めてだったということに。叱るのは、相手のためを思うからだ。
 ――再会してからわかったが、ジャムカははっきり言って頭が固いし、口うるさい。デューに対しては特に遠慮がない。…でも、たぶん、だから、自分はジャムカが好きなのだ…。


「…デュー、どうした?」
 アイラに問われてデューはきょとんとした。
「…あれ? おいら今、もしかしてぼけっとしてた?」
「ああ。急に黙り込んでどうしたのかと思ったぞ」
「えっと、どこまで話したっけ?」
「嘘はだめだと言われたところまでだが」
 デューは照れ笑いをした。
「あ、ええっと、うん、おいらも嘘はいけないなあなんて思ってさ、悔い改めたわけ。盗みのほうはね、…へへ、おいらみたいなガキは雇ってなんかもらえないし、食べたかったらそれしかないから、手を洗うってわけにはいかなかったけど…。
 で、今度はガンドルフの副官なんてのに手を出しちゃってさ、一個小隊と追いかけっこしたあげくにつかまって、牢に放り込まれたところを、ジャムカに助けてもらった、と、そういう縁」
 笛の音がぴたりと止んで、声が飛ぶ。
「盗みをやめるというから逃がしてやったんだぞ。それは嘘じゃないと言い張る気か?」
「あれ、聞いてたの?」
 デューは首をすくめて舌を出した。
「でもさ、ジャムカ。おいらほどになれば立派な技術だと思わない? もう、敵の兵隊相手にしか仕事しないし」
「盗みは盗みだろう」
「ちぇっ、まったくもう、融通きかないんだから」
 文句を言いながらも、デューの目は明るく笑っていた。


「――ところでさ、アイラさんは練習しないの?」
 デューが唐突に話を戻した。アイラがうっと返事に詰まっていると、
「確か、歌だよね。こんな感じの」
と言って、アイラのパートを歌い出した。未だに声変わりしていないのか、少年特有の透明で伸びやかな声が、アイラよりはるかに正確に旋律を紡いでゆく。
 うまかったが、まぶしいほどの輝きは感じられなかった。
(さっきのは、やっぱり錯覚だったのか)
 アイラがそう思ったとき、デューは歌をやめた。
「アイラさんは固く考えすぎなんだと思うよ。歌なんてさ、多少音痴でも本人が楽しければそれで……あっ、ジャムカ、別にエーディンさんのことを言ったわけじゃ」
 デューが途中からあわてたのは、ジャムカが立ち上がったためだった。ジャムカは笛を腰に差し、脇に置いた弓を拾い上げると、城の方角へ歩き出した。
「ジャムカってばー」
 デューがあとを追いかける。アイラもつられて立ち上がった。
「別に怒ってるわけじゃない。そろそろあれが終わる頃だと思っただけだ」
「アレって、…本人にも周囲にも多大な忍耐を強いる、例の練習のこと…だよね?」
「努力は買うが、とても聞いてはいられんからな」
 明るい日差しの中から彼らを追って再び森に入ると、まぶしさに慣れた目が今度は暗さに瞬いた。
(…?)
 ジャムカのあとを、鼻歌を歌いながらついていくデューの背中に、羽根が見えるような気がした。安心しきって、どこか甘えるような表情が、いたずら者の天使に見えるのだ。
(…そうか…)
 デューにとっては、ある意味、ジャムカは父親のようなものなのかもしれない。ジャムカに懐くデューの姿は兄にまとわりついていたシャナンに重なる。「子供というのは時々天使に見える。――どうにも手に負えない天使だがな」と苦笑して話していた兄の言葉を、親馬鹿だと思って聞き流していたのだが、案外ほんとうなのかもしれない。そして、デューの背中に羽根を見るのは、アイラがもうすぐ母親になろうとしているからなのかもしれなかった。


 自分とレックスの子供も、天使の羽根を持つのだろうか?
 レックスなら当然だと言うに決まっている。
 願わくば、羽根だけでなく、天使の歌声も持って生まれてくるといい。音痴よりはそうでないほうが、絶対にいい。
(しかたない。私も少し、頑張るか…)
 アイラは苦笑した。
 前をゆく天使の楽しげな鼻歌が、輝きながら、木々をくすぐるように流れていた。

(終わり)

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