桃色百合情話

 汚名を着せられ故国を追われたシグルドを、自国の政治力をもって助勢するために、いち時帰国を決意したキュアン=レンスター王太子およびエスリン妃夫妻に、シグルドはささやかながらも酒宴をひらくことによって、これまで、そしてこれから先も変わらぬ感謝の意をあらわすこととした。
「これまでの篤い友情に感謝の意をこめて。また、これから先も変わらぬ我我の友誼を願い祝して」
「シグルドが晴れて故国へ帰り着くことのできるそのときを願って」
「乾杯」
「乾杯」
 吊燭台《シャンデリア》から煌こうと降り注ぐ灯りのなか、宴はなごやかに開始された。
 流寓の身上ゆえに華美なもよおしは自粛されたものの、しかしセイレーン城づきの料理番が心をこめて作成してくれた数数の皿は、突如襲い来た不遇の日日に沈みがちであった人びとの心にしみじみとしみた。
 焼つぐみ、豚肝臓の串焼き、砂糖づけの葡萄と杏をつけあわせた山鶉の焼き物、うさぎの煮込み《シチュー》、鶏と米の巴旦杏風味煮、鹿肉の煮込み、えんどう豆の煮込み、巴旦杏と砂糖の台菓子《タルト》、あまい凝乳、硬甘乾麺麭《ビスキュイ》、砂糖漬けの果物各種……
 心づくしの料理に火酒、葡萄酒、麦酒《エール》、林檎酒、蜜酒等など各種酉精を取り混ぜたほがらかな場のなか、ひとり果汁をなめるエーディンに気づいたデューは、シレジア特産の蜜酒のおお瓶を片手に彼女の前に立った。
「エーディンさんは、お酒のまないの」
 訊ねられたエーディンは、幼さを多少残した頬に濃い酔気を漂わせる少年と自身の手にある林檎果汁を満たした銀の杯の間で視線を2度ほど往復させたのち、あいまいな微笑を艶冶なおもてにのぼらせた。
「ええ。わたくしはこれでもいち応、神に仕えます身分ですし……」
「えぇ、それっておかしいよお。だって、エッダの教義は別に神官階級に禁酒をしいてるわけじゃないでしょう。クロードさんだってむこうでお酒を楽しんでるんだしさあ」
「ええ、それは、たしかに……」
 うなずきながら、エーディンも思い出す。これまで、父や周囲に「エーディンは神官位を持っているのだから」と飲酒を戒められてきており、自分も何ら考えなしにそれを受け入れてきていたけれど、考えてみれば、一二聖戦士神を信奉するエッダ教の教義には、度を過ごすことをいましめてはいても、飲酒行為それ自体を禁止する項目は存在しないのである。
(どうしておとうさまや親戚のおじさま方は、わたくしにお酒をのませてくださらなかったのかしら)
 エーディンよりも年下の娘でさえ、ユングヴィの宴席に出れば多少の果実酒を口にしていたことを思えば、彼らの態度はひどく不思議に思えた。
「?」
 首を傾げるエーディンから杯を奪い取ったデューは、素早くそれを干すと代わりに蜜酒を満たして彼女にこれを返す。
「さ、さ。ここはぐぃーっといってさ、エーディンさんも楽しんじゃおうよ」
「え、ええ……」
 握らされた酒杯に戸惑いを隠しきれないエーディンをたきつける。
「このお酒はね、蜜酒って云って、シレジア以外の土地ではめったに口にできない逸品なんだよ。シレジアに来てこれをのまないだなんて、絶対人生損してるよお」
「……では、少しだけ」
 濃密な酒気のなかにかすかなあま味を残した蜜酒は、咽喉の粘膜を焼きながらするりと胃の腑に落ち、体内に赫赫と燃え立つ炎を作った
 ひと息に杯を干したエーディンにデューは感嘆の声をあげた。
「いやあ。いいのみっぷりだねぇ。もう一杯どう」
「……。いただきます」
 隣席のキュアンと王立士官学校時代の昔話を楽しんでいたシグルドは、何気なく室内に泳がせた目線に、デューに酌を繰り返させるエーディンを見つけて息を呑んだ。
 すでにずいぶんと大量の酒精を体内へ取り込んだらしいエーディンの顔色を確かめた彼の顔からざあと血の気が落ちる。
「みんな、逃げろ!」
 突如卓子を叩いて立ち上がったシアルフィ公子の絶叫に、宴場がしんと静まり返る。シグルドは、その間ももくもくと杯を干すエーディンを凝望しつつ続ける。
「私は逃げるからな。あとは、各個人の責任で場をしのぐように。以上!助言はしたからなあ」
 すみやかなる戦術的撤退を行なうシグルドについで、クロードがまずに動いた。
「シルヴィアさん、向こうで少しお話をいたしましょう」
「え。教父様がそうおっしゃるならいいけど……」
「どうかしたの」と首を傾げる踊り娘の手を取って倉皇と退室する彼にエスリンが続く。
「キュアン、ゆきましょう」
 場の展開が判らずに呆然とする夫の腕を取って、クロードたちが駆け抜けたまま、開け放されてある扉を抜ける。
「え。だって、どうして――?」
「いいから。わたしを愛しているのなら、ここは黙って着いてきて頂戴。説明はあとで存分にしてあげるから」
「?」
 混乱する夫を引きずるエスリンが扉を叩き閉める音がおおきく響く。ミデェールもこれに続くべくブリギッドの手を取ったのだけれど、キュアンと同じく一部人びとの焦る理由が判らない彼女は「だから、どうしてここを急いで出なければいけないんだ」と問いを繰り返すばかりで立ち上がろうとしない。ミデェールは、彼女の隣席にあって飲酒を続けるエーディンに兢兢としつつもなお2度ほど「お願いいたしますから。すべてはブリギッド様の御ためなのです」と頭を下げて懇願をしたけれど、どうしても彼女の動く気配が見られないと見ると、「ごめんなさい、公女さま。ぼくは、この場合は自分の身がかわいいのです。騎士失格です〜」と半泣きになりながら宴場を駆け出していった。
「何なんだ」
 誰ともなしにつぶやく声が暖炉の炎のはぜる音に重なった。自然、場の視線は、このささやかな騒動の間も我関せず飲酒を続けるエーディンに集まることとなる。
「シグルド公子は、公女を見ていらしたよな。たしか」
「公女が酒を召し上がると、何か悪いことでも起きるのか」
 と。注目を感じとったのか、エーディンが顔を持ち上げた。酔気に潤む瞳が呆としたままに室内をよぎり……レヴィンの隣にちんまりと座るフュリーのうえで停止した。
 うす桃色に染めた美貌に艶麗な咲いがのぼる。
 目線はじっと、多分に戸惑いが混入された曖昧な微笑を浮かべて応えるフュリーにすえたまま、エーディンはゆるりと立ち上がる。蹌踉とした足取りを重ねて彼女の椅子の横に立ち……
「フュリーさん。あなたって、……」
 くすくす、咲いをこぼしながら、繊いおとがいに指先を添えて上向かせる。
「なんて清楚で、なんて可愛らしい方なのかしら」
 云うや否や、素早くその唇を奪う。
 ――瞬間。
 宴場が、氷結した。

(な〜、な〜、な〜?!)
 宴場にある十半余の胸中で驚愕の悲鳴がつむがれる。彼らは双眸をまるく見開いて、この、滅多には目にすることのかなわない光景を凝望した。
 フュリーが衝撃に思考停止を発生させ、全身を硬直させたのをよいことに、エーディンは延延口づけを続ける。顎を固定するとは別の手を、娘の、血の気を落とした頬から首筋へとすべらせて、背筋を撫で下ろす。その手が胸の膨らみにかかる意志を見せていることに気づいたレヴィンは、はっと我に返ると、延延口づけを深ませるエーディンからフュリーを引き剥がした。
 そのまま、自失する娘を素早く抱き上げて室外へと退避する。
 誰も、これを止めるものはいなかった。

 宴場からほど近い小部屋に駆け込んだレヴィンは、置かれてあった長椅子に娘を座らせると、自分もその横に座って繊い手を包み持ち、なおも放心を続ける彼女の顔を覗き込んで呼びかけを繰り返した。
「フュリー、フュリー。平気か」
 幾度目かの声にようよう自我を取り戻した若緑の眸に涙が浮かぶ。
「レヴィン様……わた、私……」
 「はじめてだったのに」嗚咽混じりの声は、しかし意外と鮮明にレヴィンに届いた。
 息をのむレヴィンの声も聞こえぬままに、フュリーはほたほたと涙をこぼす。
 初めての口づけを強引に奪われたこと。
 その相手が同性であったこと。
 レヴィンの眼前でそれをされたこと。
 いったいどれに驚き、悲しめばよいのか判らない。混乱した頭では、涙を落とすことが精いっ杯だった。
 歔欷を続けるフュリーに、レヴィンは、呼吸も置かれてある状況もを忘れて見惚れていた。
 数口含んであった酒精をうつしてほのかに上気する頬を伝う大粒の涙滴。うるむ双眸。エーディンとの口づけに赫く腫れた唇。細かな慄えを帯びる細い肢体。
 気がつくと、やわらかな頬を両の手で包んで仰向かせ、フュリーと唇を重ね合わせるおのれがいた。
 永年恋れんと恋い焦がれてきた娘の唇は、無上の柔らかさで彼の激情を受けとめて迎え入れる。自然、興奮はつのった。
 唇をすべらせて首筋から、大きく襟元の開いた長衣からのぞく鎖骨をたどる。両手のひらが顫える背筋を通って細い腰をつかんだ。
 長椅子に押し倒されたフュリーが窮した声でレヴィンの名をそのとき叫ばなければ、彼はそのまま、積年の想いを遂げていたやも知れない。
 反射的に体を離し、長椅子を飛び降りる。
 乱れた呼吸と鼓動が耳元に大きく鳴り響いた。
 おおきく見開かれる若緑の双眸をまともに見ることができなかった。足許に目線を落としてつぶやく。
「すまない。その、おれも……だいぶ、酔っているみたいだ」
 云うなり身を翻し、大股に部屋を出る。背後に自分を呼び止める声が聞こえたような気もしたけれど、それに注意を払えるだけの余裕は、このときの彼には残されていなかった。
 独り室内に残されたフュリーは、暫時呆然と、レヴィンが出ていった扉を眺める。
 フュリーには、彼の性急な情熱が恐かった。だから、少しそれを弱めてくれるよう頼みたかった。しかしこうして彼に置いてゆかれる結果を得てしまうと、(云わなければよかった)とひどい後悔がそくそくと立ちのぼって来る。たとえレヴィンには単なる、酔いによる衝動であったとしても、それはもしかしたら自分には、今の口づけと同じく――いな、それ以上にすばらしい、いっ生涯忘れ得ぬ思い出を与えてくれたかも知れなかったのに。そこまで考えて、ふだんの自分らしからぬ思考に苦笑する。
(私も、ずいぶんと酔っているみたい)
 かぶりを振って馬鹿な考えを払い落とす。酔いが回ったのか、強度の睡気を覚えた。
 あくびを、ひとつ。長椅子に横たわる。南方出身者がおおいシグルド軍のために早早と城中の暖炉に火を入れたセイレーンは、シレジア王国内でも北部出身のフュリーには熱いほどの気温を保っている。短なうたた寝くらいならばこのままでも平気だろうと判断し、そしてそのまま彼女は目を閉じた。……

 ――さて、一方。
 手のなかからフュリーを奪われたエーディンは、少時そのまま、うつろな表情で空になった腕を凝望する。何が起きているのか未だ判然とできない周囲は兢兢とそんな彼女を見つめ続けた。
 と。エーディンが顔を持ち上げた。ふたたび、酔気に潤む双眸で室内を睥睨する。その栗皮色の眸が、麦酒をなめるアイラを見つけて停止した。
「アイラ様」
 呼ばれたアイラは「おう」と応えると椅子から立ち上がり、自分をめざして蹣跚と歩を進めるエーディンを両腕を広げて迎えいれた。
 ふたたび、同性同士の濃密な口づけ場面が衆目に披露される。
 眼前で、いくら同性とは云え、自分ではない他人と濃厚な口づけを延延展開させる恋人の姿に我慢の限度を越したレックスが、エーディンを抱き留めるアイラの腕を取ってこれを引き剥がす。
「何やってるんだあ」
 怒鳴られたアイラは、さも心外だと眉根を寄せた。
「グランベルの宴席では、かような行為をもって他者との親密をはかる風習でもあるのかと思っておったのだが」
「ないないないないないっ。そんなものがあるはずねぇだろお」
 青赫、顔面をまだらに染めて怒り狂うレックスに、アイラは「ふむ、」とうなずく。
「なるほど、異郷の風習はむつかしいな」
「だから、風習じゃねえってえの」
「では公女の行動は、単なる彼女個人の趣味か」
「趣味……」
 口中でうめきを響かせたレックスはそうして、今度はラケシスに迫るエーディンを見た。
 嫣然と微笑を絶やさぬままにいっ歩、またいっ歩と迫り来る美女に気を呑まれて混乱したラケシスは、立ち上がって逃げることをも思いつけず、座る椅子の背もたれに自身の背を押しつけて悲鳴を上げる。
「お下がりなさい。このわたくしに近づくことは許しませんわよ」
 が、投げられる酒杯や皿を器用に避けて、エーディンは着実にその距離をつめる。
「あらあら、怯えちゃって。まあ、なんて可愛らしいのかしら。大丈夫よ。恐いことなんて何ひとつありませんのですからね。ただこのお姉さまが可愛がって差し上げますだけですのよ」
「あなたになんて、可愛がっていただかなくても結構よ」
「そんなに意地を張らないで頂戴な。本当のあなたは素直ですてきなお嬢さんでいらっしゃいますのに。そうして孤高をみずからにしいていらっしゃいますお姿を拝見させていただきますたびに、わたくし、何とも云えずに悲しい想いに胸がふさがれてしまいますのよ」
「だからって、あなたになぐさめていただく必要はありません」
「どうしてそんなに強情でいらっしゃるのかしら」
 「悲しいことですわ」とつぶやきながら、ラケシスの椅子の背もたれに両手をついて、彼女を封じ込める。
「さあ、素直にわたくしを受け入れて……」
「いやあ」
 甲高い悲鳴を上げるラケシスを見かねたベオウルフがエーディンの背後からその両肩に手を置いて彼女を止める。
「あー、失礼ですが、いち応ラケシスの意志を優先させていただきたく――」
 言葉を最後まで云うより先に、エーディンの怒声がそれをかき消した。
「けだもの。触れないで頂戴。あなたたちはけだものですっ」
「は、あ……」
 戸惑うベオウルフに次の瞬間、魔雷《サンダー》が叩きつけられる。もとより魔法攻撃に耐性の少なかった男は絶息の悲鳴とともに床に倒れ伏した。幸いにして――と云うべきか、辛うじて生命はとどめられたようすで、ぶすぶすと煙を吹き出す長躯から圧し殺したうめきが時折漏れ聞こえる。
 これまでは「眼福、眼福」などと不届きな感想を抱いてこの光景を楽しんでいた男たちは、この展開に恐懼した。エーディンは「けだもの」「けだものですわ」と絶叫しながら、息をもつかせぬ早業でつぎつぎと魔雷を繰り出しては彼らに叩きつける。なごやかな宴場はいっ転、恐怖と混乱の神がみの支配下に置かれることとなった。
 この場面を予測して早ばやと逃走を決めこんでいたシグルド、エスリン、そしてキュアンの3名は、シグルドの居室で、遠い宴場から漂い聞こえる騒動の気配を肴に酒宴を再開していた。
 遁走の際にもちゃっかり持参を忘れなかった蜜酒を瓶から注ぎながら、未だ事情が判らずに戸惑うキュアンにエスリンが解説する。
「エーディン公女はね、齢10か18まで、神官位獲得のために、エッダ公国の女子修道院に留学していたのよ。で、そこって、年ごろの潔癖なお嬢さんの集団にはよくありがちな、同性同士の疑似恋愛遊戯がひそかにはやっていたのよね」
「同性同士の、疑似、恋愛遊戯?」
「要するに、女の子同士で恋人ごっこするのよ」
 「まあ、やってる間の本人たちは、いたって真面目なんだけれどもね」と肩をすくめて杯を干す。果実酒数杯で酔い潰れる兄と違い、彼女は底無しである。
「もっとも、そう云うことにはまったく染まらずに、そんな遊びの存在すら知らずに学生生活を過ごすお嬢様方が大半なんだけれどもね、エーディンはなんと云うか……あの美貌でしょう。思いっきり、その手の方がたを引き付けちゃったのよねえ」
「そうだろうなあ」
 公女の艶冶な顔立ちを思い出しながら相槌を打ちかけたキュアンは、そうして、妃と親友の物問いたげな目線に気づいてあわてて云い添える。
「むろん、エスリン、おまえだって負けていないぞ」
「そ。ありがと、あなた」
 おもいきりあまい声で微笑を返したのち、「それでね、」と声色を元に戻して続ける。
「8年の間、教義の他に、そっち方面をもしっかりお勉強してきた彼女は、お酒が入って意識が朦朧とすると、その気《け》が出てきちゃうのよ」
「その気って、……」
 悲鳴と破壊音が流れてくる方角を目線で示す。エスリンは深刻な表情でうなずいた。
「そ。潔癖なお年頃に同性同士の恋愛にひたっていたあのころの価値観が表面に出てきちゃうの。加えて、酒気によって理性が摩滅しているから、もう手当たり次第に手を出しちゃうわけなのよ。かく云うわたしもねぇ……いち度やられちゃったのよねぇ」
 頬に片手を添えて嘆息する妹に、シグルドがからからと呵いながら酒気に浮かれた表情でうなずく。
「そうそう、あれはたしか、エーディンの16歳の誕生日を祝う席だったっけ。彼女もその日だけ帰国して祝ったんだけれどもさ、あのときは大変だったんだよなあ。クロード教主は腹部に蹴りを喰らって撃沈、あのアルヴィス卿までもが治療用の杖で打ち負かされたんだ」
「そうそう。そうしてわたしは唇を奪われるは胸は触られるわ、……キュアン、その直前にあなたに出会っていなければわたし、危うくそっち方面へ転んでしまうところだったのよ。何せ彼女、巧かったから」
 何が巧かったんだあ――と胸中で叫びながらあいまいな相槌を打つ。
(ふたりきりになったあとで確かめねばならんな)
 思い詰める親友の表情などおかまいなしに、シグルドが云う。
「かく云う私も、2階の露台から突き落とされて、危うく死ぬところだった」
 笑って云うことか――とキュアンは胸中ひそかに突っこむ。
 ちなみに、同王国出身でもエーディンと多少年の離れていたレックスとアゼルおよびテュルテュはこれに招かれず、ゆえに当時の騒動を知らない。
 気のせいか、聞こえる破砕音がおおきくなった。
「みんな大丈夫かな」
「あー、平気平気。みんな歴戦の勇士だ。自分たちでなんとかするさ」
「そうよねえ」
 無責任に同意する兄妹に、キュアンは深ぶか長息したものの、しかし聞こえる騒動のさなかへみずから割って入りに行く気も起きず、しようがない、手のなかの杯を干して、なかまたちの苦況はしいて意識の外へ締め出すことにした。
 さて、指揮官から見離された麾下将兵たちは、必死に混乱した戦線の立て直しをはかっていた。
 宴場から逃げ出そうにも、出入口にむかったとたんに男には、魔雷攻撃が寸毫の狂いなく落とされるのである。高位神官位を持つエーディンの魔法攻撃は、男には、容赦なく、その鋭さをかんがみればこれまで死人が出ていないことが不思議にさえ思えた。ちなみに、逃げ出そうとした女は、把手に手をかけるより早くに素早く襟首をつかまえられて、口づけ攻撃を受ける。経験値のほとんどなかったテュルテュとブリギッド、そしてなぜか女の子に間違われたらしいシャナン少年は、いち度のそれで見事沈没した。(オイフェ少年は、エーディンが暴れ始めた時点から、その姿をいずこかへ隠していた)。
「ジャムかはどこだあ。てめえの妃だろおがあ。とっとと出てって押さえろお」
 魔雷の連続攻撃を紙ひと重でかわしながらレックスが怒鳴る。(その姿を目にしたアイラが、「どうして実戦ではああ素早く動けぬのだ」と首を傾げたことは、別の話である)。
 その声にようようその存在を思い出した男たちが必死に彼を探す。が、魔法攻撃に右往左往する集団のなかに、エーディンの夫の姿は見当らなかった。
「どこへいったあ。まさかさっさと逃げたのかあ」
 と。エーディンの目から逃れるためにおおきな布をかぶせた卓子の下へと隠れていたデューが「ジャムカの兄貴なら、ここに寝てるよお」と返事した。
「この人、お酒が入るとすぐに寝ちゃうんだ」
「起こせええ」
 十数の必死の唱和に、デューはしかし「えぇええ」と顔をしかめる。
「おいら、やだよう。どうしてもって云うんなら、誰か他の人がやってよう」
「何贅沢云ってるんだあ」
 とは怒鳴り返したものの、しかしデューがジャムカを置いてひとり別卓子の下へと逃亡したためしようがない、「あとで憶えてろよお」と毒突きながら、もっとも近場にいたアーダンが、床に行儀よく仰臥して熟睡するジャムカの肩をつついてゆする。
「王子、起きてくださいよ、王子」
 と。切れ長の双眸がかっと見開かれた。
 感情をまったくに剥離した顔でゆるゆると上体を起こし、ぎこちない所作で周囲を見回す。その眸が、媚笑を浮かべて状況の解説を始めようとしていたアーダンの顔面で停止した。
「なんぴとたりともわれのねむりさまたげることゆるすまじ」
 感情のこめられていないいっ本調子の冷たな声がその形よい唇から紡ぎだされる。意味を聞き損ねて「はあ」と首を傾げるアーダンの顔面に、そうしてジャムカの拳骨が埋め込まれた。
 鼻血を吹き出して仰向けに倒れるアーダン。
「なんぴとたりともわれのねむりさまたげることゆるすまじ」
 ジャムカはつぶやきながら、ゆらり、立ち上がる。
「なんぴとたりともわれのねむりさまたげることゆるすまじ」
 恐懼する男たちの集団に歩いて入り、一人一人、打ち倒して行く。
「だあっ。寝呆けてんのかあ、この男わあ」
「なんぴとたりともわれのねむりさまたげることゆるすまじ」
 厚い布地ごしに、混乱の度合いを増した外部の気配を聞きながら、デューは深深嘆息する。
 寝起きの悪いジャムカをおだやかに起床させられるのはこの世にただひとり、彼の最愛の妃エーディンだけなのであり、その彼女が正常心を喪失している今、彼の怒りが治まることはけしてないのである。
(まぁさか、お酒をのませたエーディンさんがあんなになっちゃうだなんて思ってなかったしなあ……)
 はたしてこの騒動はいつまで続き、いつ治まるのだろう。
(あんまり夜おそくまで続いて欲しくないなあ。夜はやっぱり、あったかな寝台のなかで眠りたいしさあ)
 云ってみればこの騒動の原因かも知れない少年は深ぶかと長息をこぼし、卓子下に持ち込んだ料理をつまみ始める。
(そう云えば、あの状態のエーディンサンとジャムカ兄貴がぶつかった場合は、どっちが勝つんだろう)
 疑問は、その後しばらくして晴らされた。
「けだものですわあ」
「ゆるすまじ」
 最後にふたつだけ残った声の主たちが互いを見つけたらしい、緊迫した気配が布地越しにも伝わってくる。
(来たなあ)
 ――が。デューが首をすくめて覚悟した最終激突は、いつまで過ぎても起こされなかった。
(?)
 疑問を覚えて恐る恐る顔をのぞかせたデューはそうして、死屍累累と折り重なる室内中央でかたく抱き合うふたりを見つけて双眸を見開いた。
「ああ、ジャムカ。あなたはよいひとです。……」
「エーディン。きみに会いたいと願い続けていた」
 なんなんだあ――と、胸中に絶叫を響かせながら硬直する少年を、そのとき、ジャムカの瞳がとらえた。
 ぎくり、と身をこわばらせたときにはすでに遅く――
「まだ、ひとり。残っていたか」
 エーディンの腰を抱き寄せつつ自分に向かい歩を進めるジャムカの全身から青白い炎が立ちのぼるさまを、このときのデューはたしかに目にしたと思った。
 絶望と恐怖に彩られた悲鳴がセイレーン城内に響き渡る。……

 ……

「……あら」
 酒気のもたらした酩酊から醒めたエーディンは、惨状を呈した広間を見渡しておおきな両目をしばたたいた。広い室内のそこらかしこに横たわり、かすかなうめき声を漏らして痙攣する人びとに顔をしかめる。
「まあまあまあ。みなさまったら、そろってこんなに酔いつぶれてしまって。いくらこういった場が久しぶりだったからと云いましても、これははしゃぎ過ぎではありませんこと」
 柳眉を寄せて嘆息した彼女はそうして、自分の胸に顔をうずめて静かな寝息を続ける夫の額に軽い口づけを落とした。
「あなた。起きて下さいましな。こんなところでお休みになっていては、お風邪を召してしまいますわ」
 いつもの通りに静かに両眼を開いて眠りを払ったジャムカは、間近に見えるつまの笑顔に微笑で応える。
「エーディン。良い夢を見ていたよ。君の夢だ」
「あら。わたくしも、つい先ほどまで、あなたの夢を見ておりましたのよ。気が合いますわね」
「夫婦だからな」
「まあ」
 双眸を伏せるエーディンの、淡く染められた頬をジャムカはおだやかな微笑をたたえたままにそっと撫でる。
 ゐちゃつくふたりを遠目に眺めながら、(もう、にどと、エーディンさんにはお酒をのませたりするもんかあ)とデューは心に固く決意したのだった。……

〈了〉



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